■『千里姫の冒険』(8)
(7)からつづく
☆
翌朝になると、昨夜の曲者が射込んだらしい矢文(やぶみ)が、厨房の外壁で
発見されました。家老の報告で中身を読んだ三川の殿様は、そそくさと千里姫
の部屋へやってきました。
「ちゃんと、姫はおるではないか!」
「あ、おはようございます。三川のパパしゃん」
「姫、変わったことはないか?」
「わかったわかった、すぐに朝餉の膳を運ばせるでのう」
「殿、これはやはり悪戯(いたずら)でござりまする」
廊下に控えていた、家老の西村がそう言いました。
「うむ、おそらくそうであろう…。しかし、誰がこのような悪戯文を…。野々、
千里姫に変わった様子はないよのう?」
「変わった様子ばかりでございます!!」
野々は、気色ばんで答えました。
「ま、まあまあ、よい。野々に訊くのではなかった…」
「どぎゃんしたとね?」
「姫をかどわかした…などという悪戯の矢文が、昨夜あったのだ。それ、曲者
騒ぎのあった、すぐあとのこと…」
「うちにも、見せてくれんねぇ」
千里姫は、殿様から手紙を受け取ると、野々と一緒に覗き込みました。
「うわっ、達筆すぎて、うち読め〜ん。かわりに、読んでほしかぁ」
「字も、読めなくなったのでごさりまするか!?」
野々は、千里姫からあきれた様子で文をひったくると、読み上げました。
「<千里姫を預かり申す。返して欲しければ、三月十日暮れ六ツまでに、赤坂
見附の豊川稲荷境内へ三千両届けられたし。なお、幕府老中および目付、若年
寄、町方等に注進あらば、姫の生命の保証あらず。御存知鬼面党より>…。こ、
これはなんでござります!?」
「おそらく、いま江戸市中で評判の鬼面党をかたる、悪戯の文であろう。姫君
が、一晩行方知れずになったのをどこかで聞きおよび、こんな根も葉もない、
脅迫の矢文をこしらえたのでござる」
家老が答えました。
「殿っ、野々は心配でござりまする! 姫君に、まさかのことでもあれば…」
「大丈夫じゃ。この屋敷には、家臣だけでも二百名以上もおるのだぞ」
「これは、すぐさま大目付様のお耳にでも…」
「…捨ておけ。大目付の高木常陸守様は、大学頭も兼務しておられ、いつもい
つもご多忙じゃ。こんな悪戯をご報告してはご迷惑だし、かえって面倒なこと
にもなる」
「でも、殿っ…」
「野々が、それほど姫のことが心配なのであれば、この部屋を四六時中、警護
させることにしよう。西村、さっそく庭番を呼べ」
「はっ、かしこまりました」
「お、お庭番でござりまするか??」
「そうじゃ。…野々は、庭番では不服か?」
「い、いえ、そういうわけでは…。でも、お庭番ということはぁ……?」
「ねえねえ、教えて、野々しゃん。お庭番って、いったいなんね?」
「姫様は、知らなくても、およろしいのでございます」
「それって、もしかして、忍者んこつねぇ?」
「ご、ご存知なら、訊かないでほしゅうございます!」
「わ、カッコよかぁ〜! ホンモノねぇ?? 手裏剣シュッシュッシュッ!」
「殿っ、ひょっとすると、もしかしまして、その忍びの者は、まさか…まさか
信州の出ではございますまいな…?」
「おう、野々は、なんでもよく存じておるのう。信州は木曽谷の忍びじゃ」
「や、やっぱり…!」
「なにが、やっぱりなのじゃ?」
「…い、いえ、こちらのことでござります」
さっそくその夜から、千里姫の部屋の前庭には、警護をする木曽忍者の姿が、
見うけられるようになりました。
☆
その夜の千里姫は、天井裏をミシッミシッと歩く人の気配を感じて、ミニで寝
るのはやめにしました。きっと、木曽忍者が、千里姫の部屋の天井裏まで警戒
しているのでしょう。(…ばってん、簡単に居所ば見破られてしもうとる忍者
って、いったいなんな?)
守ってくれているのはわかるのですが、千里姫は、なんだか覗かれているよう
な気がして、地が厚く寝乱れにくい、白の寝間着で横になりました。(ずっと
あとで、野々にそのことを話したら…、「それは姫様、絶対に覗いております
る。 木曽の忍びに限って、間違いございません!」と、野々は答えたそうで
すが…)
床に入っても、なかなか寝疲れません。なにか、大事なことに気がついたのに
もかかわらず、忘れてしまったときの歯がゆい気分。なぜこれほど、落ち着か
ないのでしょうか…?
千里姫は、最初その胸騒ぎを、また1991年へと戻れる兆しなのではないか
…とも思いましたが、それにしても、なにやら焦燥感がやたら身近で、リアル
なのです。
しばらくゴロゴロ、寝返りを繰り返したあと、突然、急に、思いついたのです。
そして、いままで、なぜそのことに気がつかなかったのかと、なかば、唖然と
してしまいました。
「…じゃあ、こんお屋敷の、ホンモノの千里姫はぁ、いったいどけぇ〜さらき
よっとだろかぁ!? ……うちは漠然と、1991年のうちと、江戸時代の千
里姫とが、入れ替わったとばっか思い込んどったとねぇ〜!!」
千里姫は(いえ、1991年の千里姫ですが)、薄がけをガバッと跳ね上げる
と、大急ぎで身支度を始めました。
「♪はだかには〜ならないわ〜、どんなにムシ暑くてもぉ〜、ヒュ〜〜!」
千里姫が天井をニラむと、ゴツンと、にぶくて大きな音がしました。天井板の
節穴から、驚いて目を離した木曽忍者が、屋根下の梁(はり)へ思いっきり頭
をぶつけた音でした。