ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(5)

(4)からつづく

●三の章

「こ、これ、姫様! なんでございますか、お行儀の悪い!!」
千里姫が三川藩の上屋敷へ戻ってから、2日がすぎました。デビューしてから
3〜4年ぶりに、ぐっすり眠れたのはよかったのですが、千里姫はすぐに退屈
で死にそうになってしまいました。今日も、自分の部屋で足を投げ出して座っ
ていたのを、乳母の野々に見つかってしまったのです。

「うち、退屈で退屈で死にそうね!」
「以前の姫様なら、そのようなことはおっしゃりませんでした! ああ、昔の
姫様が懐かしゅうございます。昔はよろしゅうございました」
「だから、うちは以前の姫様じゃなかね!」
「いい加減にあそばせ!」
「そいに、このじゃらじゃらした着物ば、好か〜ん。前の黄絣のほうが、ま〜
だマシだったとねぇ〜」
「なにを申されます! あのような下賎の者が着るものなど、早くお棄てなさ
りませ! どこかに隠してらっしゃるのは、この野々も存じておりますよ!」
「いやたい」
「…それに、なんでございますか、あのキンキラキンのお召し(べべ)は? 
まるで南蛮人のような、下品な衣装でござりますよ!」
までだったろか〜?」
「ま、また、わけのわからない、お戯(たわむ)れを…」
「あ〜〜、たいっぎゃ退屈で窮屈でいやたい。…ねえねえ、野々しゃん。江戸
前の、握りのお寿司が食べたかぁ〜!」
「な、なにを申されます! あのような、ちまたの湯屋などで売られる得体の
知れない、下賎で不浄な食べ物などもってのほか…!」

ちなみに握り寿司は、当時は魚河岸か、風呂屋の前や横の屋台で売られていま
した。風呂帰りに、握り寿司でもつまみながら、ちょいと1杯…というのが、
江戸っ子の粋な楽しみでもあったのです。当時は、ヒラメ、スズキ、イナダ、
ブリ、シャコ、マダイ、イシダイ、シマアジ、アナゴなどがよく食べられてい
ました。深川の料理屋街には、魚をストックしておく生け簀が作られ、江戸前
の新鮮な刺し身料理の贅を競っていました。
ただし、現在と大きく違う点は、マグロは下魚であり、おカネのないときに食
べるいちばん安い魚だったことです。しかも、赤身はともかく、トロの部分を
食べるのは“下の下”として嫌われていました。わたしの親の世代でも、マグ
ロの刺し身といえば赤身であり、脂身を食べる習慣はありません。
今でさえ、昔からつづく江戸っ子の寿司屋で、真っ先にトロなど注文すると、
「この野暮天が! おめえ、どこのもんでぃ?」という顔をされるのは、この
江戸からつづく食文化の習慣や美学が、まだ脈々と生きづいているからです。

「…ね〜ね〜、なにか、楽器でもなかねぇ? ギターとかピアノとかドラムと
か、なかとぉ?」
「姫様、今日はお琴のお稽古がございます」
「…琴は、弾いたことなかぁ〜」
「なにを、お戯れを! 姫様は、怖れ多くもお城の上様(うえさま)に、春と
秋の園遊会でお琴をお聴かせするほどの、名手ではござりませぬか?」
「琴じゃなくてぇ、もっと、…こう、持って弾きよる楽器ばなかね?」
「琵琶でございますか?」
「あ、そうね。琵琶ならギターに似よるけん、少しは弾けるかもしれん」
「いいえ姫様、なりませぬ。琵琶より、お琴でございます」
「うちは、琵琶が弾きたかねぇ!」
「なりませぬ!」
「そげんこつ言っとっと、あん南蛮のミニキュロットでぇ、江戸の町中を歩い
てやるけん!」
「……で、では、今日だけでございますよ」
そう言い残すと、野々はそそくさと琵琶を取りに部屋を出て行きました。

この2日間、野々の教育ぶりは徹底していました。今でいうところの、スパル
タ教育に近いといっても過言ではありません。そのせいか、千里姫はそろそろ、
このお屋敷を逃げ出したくなってしまったのです。

あの鰻飯をおごってくれた田代の靖吉親分や、浅草煎餅を買いに走ってくれた
親切な下っ引の正、それに、番屋でかいがいしく面倒をみてくれて、越後屋の
お煎餅が一番だ…と言っていた同心の渡部が、なにやらむしょうに懐かしくな
ってしまいました。こんなお屋敷よりは、江戸の市中のほうが、よっぽど面白
そうなのです。
「いつ1991年に戻れるかわからんけん、少しでも楽しく暮らしたほうがよ
いかんよ。うちは、ロックンローラーだけんねぇ」



「いったい姫様は、どうされたというのじゃ…?」
乳母の野々は、琵琶を趣味にしている家老の西村修衛門の居室へと向かいなが
ら、この2日間のことを考えていました。

(まるで人が変わってしまったようじゃ。ほんとうに、キツネかタヌキか、は
たまたムジナかガラッパにでも化かされたのではなかろうか? それにしても、
いが…。よそ様の姫君は、十七歳かそこらで嫁ぐというのに、うちの姫君はも
う二十一歳じゃ。こんな行状がよそ様にでも知れて、うつけ姫の噂でも立てら
れた日には、早々、いかず後家になってしまわれぬとも限らぬ…)

「ご家老様、おいであそばしますでしょうか?」
「ああ、乳母殿か?」
家老の西村が、ガラッと障子を開けました。
「野々殿がおみえとは、珍しいのう。ささ、入られよ」
「は、お邪魔いたしまする。…実は、琵琶をお借りしたく、参りました」
「なに、琵琶を?」
「はい、姫君がどうしても琵琶を弾いてみたいと…」
「なになに、姫君の所望とな?」
「お琴ではなく、琵琶を弾いてみたいと…」
「それは珍しいのう。姫君は、いったいどうされたのじゃ?」
「…ご家老様、なにやら、わたくしは恐ろしゅうございます」
「ほう、なにが?」
「姫君のご様子、ご家老様は妙だとはお思いになりませぬか?」
「ふむ、妙だといえば妙だし、いつもの気まぐれを起こされたのだと言えば、
そうも見えるわい。あっはっはっは」
「笑いごとではござりませぬ!」
「…こ、これは、あい済まぬ」
「昨日など、あれだけ怖がらていた虫くれを、懐刀を抜いて、追いかけ廻され
ているのでございます」
「なに、抜刀して、虫くれを追いかけてる??」
「はい、なにやら蝿が飛んでくれば、<蝿タタケはどこね〜?>とか、わけの
わからぬことを申されまして、それこそ、お屋敷じゅうを走り廻っておいでで
ございます」
「ふ〜む……」
「以前の姫君なら、わたくしの申すことに一時(いっとき)は逆らわれても、
わたくしを脅かしなどなされはしませんでした」
「ほほう、姫君は、野々殿を脅すのか?」
「はい、さようでございます。それが…」

野々がそこまで言いかけたとき、障子がガラッと開いて、三川藩藩主の三川珠
里亜守(じゅりあのかみ)英宗が立っていました。
「これはこれは、殿。存ぜぬとはいえ、失礼つかまつりましてございます」
家老の西村が、急いで上座から身を外しました。
「野々、千里姫がそちを脅すとは、まことか?」
「い、いえ、怖れ入りましてございます」
「いやいや、苦しゅうない、正直に申せ。まことのことか?」
「は、はい、それが、言うことをきかぬと、あのミニクロウタとかいう、けが
らわしい南蛮の衣装で、江戸市中を練り歩くと、この野々めを脅されるのでご
ざいます」
「ふ〜〜む、ミニクロウタをのう…」
「正直に申し上げますが、姫様はもう、わたくしめの手には負えませぬ」
「まあまあ、野々、そう深刻に考えずともよい。例によって、いつもの姫の気
まぐれじゃ。はっはっはっ」
「お殿様までが、そのような…。きちんとお躾を申さなければ、この野々が、
世間様の笑い者になりまする。
「それに、あのミニクロウタとかいう、姫が市中で探してまいった衣装、なか
なかのものじゃ。わしは、たいっぎゃ気に入っとっと。ふふふっ」
「と、殿っ! なにを申されますか! そ、それに、姫様の得体の知れぬ、口
マネまでなされて!」
「まあまあ、そう目くじらを立てんでもよいではないか。のう、西村?」
「ははあ」
「西村、そちはミニクロウタをまとった姫を、見たか?」
「いえ、まだ拝見してはおりませぬ」
「なかなか、うい身なりじゃ」
「左様でございますか。では、今度ぜひに…」
「お、お殿様に、ご家老様 まで!!」


(6)へつづく