ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(4)

(3)からつづく



靖吉親分は、人形焼きを食べるだけ食べると番屋の火鉢の横でコテッと寝てし
まった千里姫に、そっと近づきました。
(へっへっへっ、真っ白い、いい肌ぁしてやがるなぁ。上玉だぜぇ)
靖吉親分が、千里姫の胸元へそっと手を伸ばしかけたときです。
「…てーへんだ、てーへんだ、親ぶ〜ん!! てーへんだぁ!!」
遠くから、下っ引の声が聞こえてきます。

「ちっ、ここぞってえときに、あの野郎は野暮ばっかしやがる!」
ガラッと戸を開けて、血相を変えた正が飛び込んできました。
「なんでぃ、騒々しい! こちとら、これからってときによう…。どうしたい、
野暮天。殺しか? 押し込みか? それとも、鬼でも出たのかよう?」
「…ちちちち、ち、千里…」
息切れがひどくて、正はなかなか話ができません。
「おめえの“てーへんだぁ”は聞き飽きたい。そんで、仲見世の煎餅は?」
「ここここ、ここにありやす!」
「ま〜ったく、気がきかねえ野郎だぜ!」
靖吉親分は、袋の中から煎餅を1枚取り出すと、ポリポリと食べ始めました。
「…お煎餅、…食べたかぁ。…むにゃむにゃ…やっぱ美味しいお煎餅は、……
浅草でしか食べれんけんねぇ。…うれしかぁ。うふっ」
「……ちっ、寝言いいやがってよう。まったく太平楽ってもんだぜ」
「おおお、親分! そ、そのお人は…」
手桶から、水を柄杓でがぶがぶ飲みながら、正が何か言いかけます。するとそ
のとき、遠くから、今度は馬のひづめの音が聞こえてきました。

「おい、奉行所じゃ何だって? 家出娘はいたのかい?」
「い、いやした!」
「やっぱりなぁ。…で? どこの店(たな)の娘でぇ?」
「そ、それが…」
正がそこまで言いかけたとき、番屋の前で馬がとまりました。ガラッと戸を開
けて入ってきたのは、靖吉親分でさえまだ二言三言しか話したことのない、与
力の勝村でした。つづいて、息せき切った同心の渡部もつづきます。
「これ、保護をしておる姫君というのは、どこだ!?」
「これはこれは、勝村様。このような、むさ苦しいところへ…」
「ええい、うるさい! 姫君はどこだ!?」
靖吉親分は、わけもわからず叱られて気が動転してしまいましたが、どうやら
与力が探しているのは、この頭のおかしな娘らしいのに気がつきました。

「おい、起きろ。おい、千里ちゃん、起きねーか! 与力の勝村様、じきじき
のお取り調べだぞ! おい!!」
靖吉親分が、千里姫の肩をゆすりました。
「…うう〜ん、まだ眠かぁ。…ほっといてほしかぁ」
「おい、千里ちゃん!」
つも睡眠不足たい」
「こ、こらっ! 与力様の御前だぞ、起きろ! 浅草の煎餅もあるぞ!」
「…ど、どこにありよる〜? 食べたかねぇ!」
千里姫は、急にがばっと起き上がると、さっそく靖吉親分の手元にある、お醤
油のいい匂いがする袋を見つけました。
「こいが食べたかったとねぇ! ちょうど、夢ばみとったところたい」
「お、おい、千里ちゃん! こちらは与力のだんなで、勝村様だ! それに同

そのとき、入り口の土間に立っていた勝村と渡部は、突然、その場へサッとし
ゃがみ込むと土下座をしてしまいました。靖吉親分は、かじりかけの煎餅を手
に持ったまま、その意外な光景にポカ〜ンと見とれています。
「ご無礼ながら申し上げます。あなた様のお名前を、お聞かせ願えませぬか?」
「…うちん名前ね?」
千里姫は、お煎餅をかじりながら、指をツンッと自分の鼻に当ててみせます。
「怖れながら、左様でございます」
「うちん名前は、千里ね。ここんみんなは、千里姫と呼びよっとぉ」
「ははぁ〜〜〜〜っ!」
靖吉親分は、何がどうなっているのかわけがわからず、千里姫の顔と平伏して
いる与力や同心とを、交互に見つめています。
「おお、おめえ、どうなってるんでぃ? こ、こんなことして、大丈夫かい?」
靖吉親分は、千里姫の袖を引っぱって囁きました。
「こ、この無礼者めが!! こっちへ下りろ!!」
与力の勝村が、靖吉親分に血相を変えて叫びました。
「へへ、へいっ!!」
「ええい、頭(ず)が高い、控えおろう! このお方をどなたと心得る!!」
与力の勝村が、大声で怒鳴りました。
「…う、うちは、水戸黄門じゃなかねぇ」
「はは〜〜〜〜っ!」
「ベスト君入りの印篭も、持っとらんけん。5年後なら、ひょっとすっと持っ
とったかもしれん」
「ははぁ〜〜〜〜っ!」
「…ばってん、こんお煎餅、さっすが本場もんねぇ。美味しかぁ!」
「お、怖れながら申し上げます。お、お言葉ではございますが、千里姫様。お
煎餅は、越後屋のものが一番美味しゅうございます。米がぜんぜん違うのでご
ざいます」
もともと越後出身の同心の渡部が、横からボソッと言いました。
「こ、これ、渡部! おぬし、気でも違ったのか! 口がすぎる!!」
与力の勝村が、血相を変えました。
「ははぁ〜〜〜〜っ!」
「お煎餅には、やっぱ、番茶が欲しかぁ〜」
「ははぁ〜〜〜〜っ!」



薬研堀の大番屋騒動は、三川藩の上屋敷から、迎えの籠が到着するまでつづき
ました。その迎えの者の中には、三川藩江戸詰め家老の西村修衛門をはじめ、
組頭の北村康之介と上岡和兵衛、それに幼少のころより千里姫の乳母(まあ要
するに教育係のことですが)をつとめている、野々の姿も見えます。

「まあまあ、姫様! そのお身なりは、何としたことでございましょう!」
野々は千里姫に駆け寄ると、涙を流しながらひれ伏してしまいました。
「そ、その御髪(おぐし)の無残なありさまは、いったいいかがなされたので
ございます!?」
「あたは、誰ね?」
「な、何を申されます! 乳母の野々でございますよ!」
「うちは、森高千里ね。ほんとは、千里姫じゃなかねぇ」
「姫様、気をしっかりお持ちくださりませ!」
「……ねえねえ、うちは千里姫に、そぎゃんよう似とっと??」
「お戯れは、おやめくださいませ! この野々が、どれほど姫様のことをご心
配申し上げたことか! 夕べは、一睡もできませなんだ」
「…うちには、わけがわからんとね」
「そ、その言葉遣いも、どうなされたのでございます!?」
「こいは、熊本弁たい」
「…姫様、かなり疲れていらっしゃるご様子。ささ、早く籠へお乗りください
ませ。お屋敷では、お父上とお母上がお待ちでございます。お殿様などご心痛
のあまり、本日はご登城もされなかったほどでございます。ささ、早く帰りま
しょう。ささっ…」
「……帰るって、どけぇ帰りよっとね?」
「ま、まあ、何を申されます。キツネにでも、たぶらかされたのでございます
か? お屋敷に決まってるではございませぬか!」
「うちんマンションは、お屋敷というほどでもなかね」
「…な、なにを申されているのでございます。ああ、お痛わしや!」

こうして、千里姫は超立派な籠に乗せられて、薬研堀の番屋を出発しました。
「靖吉親分、また鰻おごってね〜! また遊びに来るからねぇ〜。バイバイ」
籠の横っちょの引き窓から、千里姫が手を出して振ります。
「あいよ。待ってるよ〜、千里ちゃん」
「…ここ、この無礼者めが!!」
そんな組頭たちの声をうしろに残し、千里姫は籠に揺られて、神田駿河台下の
三川藩上屋敷(かみやしき)へと向かっていきました。

(5)へつづく