ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(35)


(34)からつづく

●十五の章


「おかえりなせぇやし」
千里姫が、日本橋川の屋形船まで来ると、木曽忍者はすでにおらず、おそらく
かなりの金子(きんす)を前渡ししてあるのでしょう、屋形船の船頭が愛想よ
く出迎えました。
岸辺には、もうすでにお風呂と手洗いのコンパクトな小屋が、すっかりできあ
がっています。ちょうど今は、お風呂を沸かす釜を、人足たちが取り付けてい
る最中でした。

「木曽忍者さんば、どけぇ行きよったとねぇ?」
「さ、さあ……。あのお方は、忍者さんなんですかぃ?」
「ぜ〜んぜん、見えんとでっしょ? ふふっ」
ふと岸辺を見ると、ひとりの絵師が一所懸命に、こちらを向きながらなにやら
写生をしています。
千里姫は、興味を惹かれて近づきました。

絵師の背後に廻ると、それはちょうど小屋に釜を取り付けている、大工や職人
たちの動きを写生しているのでした。遠くに日本橋界隈が見え、はるか空の向
こうには、大きな富士山が描かれています。
絵師の足元には、それまでに素描した、さまざまな職人たちの働きぶりが、鮮
やかに活写されていました。小屋を建てて、風呂桶を入れるシーンもあります
ので、この絵師は、昨日からここで写生をしていたのでしょう。
「そちは、絵が好きなようだのう?」
30歳すぎぐらいの男は、千里姫がジッと覗き込んでいるのを見ると、話しか
けてきました。
「うち、絵はニガ手たい。絵よりも、音楽が好きだけん」
「…うむ? なんと申した??」
絵師は、初めて千里姫の顔を見ました。
「…おやっ? …そこもとは、今日から市中に出回っておる、戸澤屋の仕事の、
ええと…確か、ちさと太夫ではないかな?」
「はい。うちは、千里姫ねぇ」
「……じ、実物は、メチャクチャきれいだのぅ…」
「うふっ、あんがとねぇ」
「それがしも、売れぬ職人絵や風景画などやめて、美人画に転向しようかのぅ。
そのほうが実入りとて、たいへんよかろうに…」
男は筆を置くと、墨をゆっくりとすり始めました。

「日和見ばしてはいかんよ、おじさん。うちも、ときどき日和見しそうになる
けん、そげなときは、初心のミーハーに戻りよる」
「……ふーーむ、戸澤屋も役者絵が御法度ゆえ、うまい素材を探し出したもの
よ。……しかし、元絵は誰が描いておるのかのぅ。それだけが、ようとして知
れぬ。……あれほどの筆運びと線さばきなら、すぐに作者が知れても、なんら
不思議はないのだが…」
「あいは、岡本しゃんが描いとっと」
「…なんと申した? 岡本??」
「そうたい。…うちんお屋敷の、ご家来衆のひとりねぇ」
「…なにか、いわくがありそうだのぅ。…いや、詮索は、これぐらいにしてお
こうか」
「おじさんは、なんて名前ねぇ?」
「それがしか? …それがしは、中島鉄蔵と申す」
「……そぎゃん絵描きしゃん、聞いたこともなかぁ」
「はっはっはっ、まったく評判にならぬからなぁ」
「学校の教科書にも、出とらんよぉー」
「どこの教科書に、出ておらんのだ?」
「学校…じゃなかった。ええと、…学問所? 寺子屋…かな?」
「それがしのような、売れぬ貧乏絵描きが、書物に載るわけがないではないか。
はっはっはっ。…そこもとは、ちと変わってて、面白い女だなぁ」
「おじさん、貧乏ね?」
「ああ、メチャクチャ貧乏だ。今まで、二十回以上も夜逃げしたわ」
「す、すんごい貧乏たい!」
「しかし、それがしの絵が出回ると、決まって債権者が店まで追いかけてくる
ので困っておるのだ」
「どぎゃん絵ば、描きよっとねぇ?」
「そうだなぁ、…たとえばだなぁ、……これだ」
そう言って、おじさんは画材道具の底から浮世絵を取り出しました。

「あっ、こいは、見たことあっとぉ!」
「ほう、それは感心感心。絵が好きなそこもとなら、一度や二度は書店や小間
物屋で見ておるかもしれんなぁ…。いや、すぐに売れなくなってしまったがな。
…これは、赤富士という絵だ」
「こ、これ、ゴッホの絵に描かれよっと!」
「ゴッホウ? なんだ、それは??」
「こんサインば、なんて書いてあっとね!?」
「ああ、それは、それがしの画号だ。葛飾北斎と書いてある」
「…ゲ、ゲゲーッ、たまがったとぉ! おじさん、超有名人じゃなかね!!」
「ちょ、ちょい夢…とは、なんだ??」
「あの、…ほれほれ、…湘南の海ん向こうから富士山ば描いて、…こう、大き
か波が、ザブーンとかぶっとっとー!」
「はて? 海の上から、富士山はいまだ描いたことはないが…」
「そ、そいでお舟が、笹の葉みたいに揺れよってぇ…」
「……ほほう、面白い構図だなぁ」
「今度、描きぃ!」
「うむ、考えておこう。……ところで、あの屋形船だが、そこもとの舟か?」
「そうたい」
「それでは、恥を忍んでお頼みするが、今夜泊めてはくれんかなぁ?」
「…えーー??」
「実は、それがし、昨夜も夜逃げしたばかりなのだ…」
「…葛飾北斎しゃんってば、たいっぎゃレゲエのおじさんと変わらんねぇ」

葛飾北斎は、90歳で没するまでに、実に93回も江戸市中を引っ越ししまし
た。それは、現代では画材を求めての引っ越し…と解釈されていますけれど、
千里姫との会話を聞いていると、どうやら債権者の取りたてから、夜逃げを繰
り返してたみたいですね。

このとき寛政3年(1791年)、みずから“画狂人”と名乗る葛飾北斎は、
まだ若干31歳でした。



昼を少しまわったあたりで、ようやく髪結いに動きがありました。床屋の筋を
張っていた田代の靖吉親分は、ソッと尾行します。

先ほど、店の中で面が割れてしまってますので、思いっきり変装をしていまし
た。頭から手拭いを目深にかぶり、肩には空の肥桶をかついでいます。普段の
オシャレな靖吉親分らしくもなく、薄汚れた着物を尻はしょいにし、これまた
汚い股引を履いています。

肥桶の中には、十手と着替えが入っていましたけれど、きれいに洗ってあると
はいえ、ホンモノの肥桶を借りてきていますので、匂いが移らないか心配で心
配で、仕方がありませんでした。
「ちっ! 用心深けえ野郎だぜぃ」
何度か振り返る髪結いを追いながら、物陰から靖吉親分がつぶやきました。

髪結いは、どんどん江戸市中から離れて、銀座から新橋、御成門方面へと歩い
て行きます。
「こりゃ、いってぇどこへ行くんでぃ? 芝の増上寺かぃ…、まさか品川宿じ
ゃあるめぇなぁ…」
御成門をすぎたあたりで、髪結いは急に方向を変え、五本木から六本木方面へ
と向かいました。そして、六本木をかすめて、まだまだ緑の多い練塀に囲まれ
た武家屋敷や御用屋敷がつづく、麻布あたりの森へと入っていきます。

「なんでなんでぃ? …どこへ行きやがる…」
六本木あたりから、人通りがめっきり少なくなりましたので、靖吉親分は肥桶
を下ろして森陰に隠すと、近在のお狩場人足のようなふりをしながら尾けてい
きます。
目黒や広尾あたりのお狩場は、この時期、将軍がやってきて鷹狩をしますので、
それほど怪しまれる風体でもありません。

やがて、渋谷川のせせらぎを渡り、盛り草の陰に隠れてそっとうかがうと、髪
結いは、あたりの様子を神経質そうにうかがいながら、朽ちた大きな水車小屋
へ、ソッと入っていきました。

(36)へつづくけど、また待っててねーーーー!!v(^^)