ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(34)


(33)からつづく



「ねえねえ、靖吉親分…」
きれいに櫛を入れてもらってスッキリしたあと、髪結い床を出ると、千里姫が
呼び止めました。

「…豊川稲荷へ行くんは、やめにすっとねぇ」
「…へえ。……あの、床屋でござんしょう?」
「あ、親分も気づいとっとぉ!?」
「そりゃ、こちとら、それが商売(しょうべえ)だ。気づかねえわけ、ねえじ
ゃございやせんか」
「うちんこつを、初めて逢うのに、姫君様って呼びよったとねぇ!」
「へえ、それにあの様子は尋常じゃねぇ。姫様をご覧になったときから、顔色
が紙のようでしたぜぃ」
「たいっぎゃ怪しかねぇ!」
「たいっぎゃ怪しか…でごぜぇますねぇ」
「親分は、あん床屋しゃんを見張って、あとを尾けよらんねぇ」
「言われなくても、がってん承知の介でぃ」
「今度、気づかれたら絶対にいかんよ!」
「なぁ〜に、あっしが本気を出しゃ、木曽忍者さんでも気づかねぇ」
「あん人は、目の前を曲者が通っても、じぇ〜んじぇん気づかんかったとぉ」
「あの人ぁ、職業の選択を誤ってますぜぃ。こちとら、忍者よりも身軽でぃ」
「さすがたい。さっきの、姫も十九で番茶も出花は、帳消しにしたげるけん」
「…へ、へい、ありがとうごぜぇやす! いえ、姫様。あっしが怪しい鋳掛け
屋を尾けてきたとき、やつぁあの髪結いの店の前で、急に商売を始めやがった
んだ。そんとき、あそこの丁稚が鍋を持ち込んだんだが、ひょっとしたら丁稚
を使って、連絡を取り合っていたのかもしれませんねぇ」
「そげなこつが、あったとねぇ?」
「へえ、これであの鋳掛け屋と髪結いとが、一本の線でつながりやしたぜぃ」
3人は、もう一度髪結い床の店を振り返りました。

「おい、正。おめぇ奉行所へ行って、渡部の旦那に今のことを報告しろぃ。そ
れから、ここらの町名主や町年寄に、あの髪結いの素性を訊いて廻るんでぃ。
いいか、悟られちゃならねえから、口止めしとくのを忘れるんじゃねぇぞ」
「へい、がってんでぇ!」
「うちは、なんばしよっとねぇ?」
「…姫様は……」
「そうたい! うちは日本橋の白木屋たい。親分の名前でツケ買いしよっと」
「そそ、そーじゃねえでゃんしょう? 姫様は、念のためにお屋敷へ戻られて
いた方がようござんす」
「いやたい! せっかく、面白くなってきよったとぉ〜!」
「そ、そいじゃあ、薬研堀の大番屋にでもいらしてくだせぇ。おっつけ、渡部
の旦那や、正も戻りやしょうから…。まかり間違っても、どうぞ白木屋でツケ
買(げ)えだけは、しねぇでやっておくんなせえやし!」
「……は〜い」

「それにしても、親分。ここらあたりの本屋にゃ、いやに姫様のお顔が、あち
こちに貼ってありやすぜぃ」
正が、ふと周囲を見回しながら言いました。
「…えぃ? なんだってぃ??」
「ほらほら…」
見ると、あちらこちらの本屋の見世先に、千里姫にソックリな浮世絵が飾って
あります。有名な山東京伝のシャレた袋物の店先には、そのころ評判の『江戸
生艶気樺焼』の平積みと並んで、“銀色の夢・ちさと太夫”をつなげた凧まで
売っている始末。
歩いていくと、式亭三馬の化粧品店の見世にも、化粧水<江戸の水>の看板と
ならんで、“銀色の夢・ちさと太夫”の絵が、ポスターがわりに貼られていま
した。
「ここ、こりゃ姫様、いってぇ、どうしたってわけですかい!?」
「こいは、うちのブロマイドねぇ」
「ふ、風呂まいどぉ??」
「こいはぁ、うちんお屋敷の、岡本しゃんが描きよったとねぇ。夕べ、うちも
1枚もろうとるけん、たいっぎゃよう描けとるでっしょ?」

「お、おい、おやじ。それぁ二枚くれ、いや五枚、…いやいや、十枚くれぃ」
田代の靖吉親分は、巾着を握りしめながら、さっそく買い求めています。
「お、親分、ご禁令を破る浮世絵を、町方が真っ先に買ってちゃあ、ぜんぜん
示しがつきませんやぁ…。ねえ、誰かにたれ込まれたらぁ、クビですぜぃ」
正が、心配そうに言いました。
「うるうる、うるせぇ!」
「親分、そいつぁいけねえ。町方のお役目を忘れるなんて、田代の靖吉親分の
名がすたりまさぁ」
「黙ってろぃ! なんでもご禁令の白河老中なんぞ、クソッ食らえでぃ!」
「そそ、そんなに興奮しないでおくんなさい。あっしらは、その御上から十手
を預かる身じゃございやせんかぃ」
「おれに説教なんぞ、するんじゃねぇ!」
「しかし、親分…。お役目を忘れたなんてことが、お奉行所にでも伝わったら、
それこそ同心の渡部の旦那や、上役の勝村様ばかりでなく、お奉行様にもお咎
めが…」
「そんときは、そんときよ。こっちとら江戸っ子でぃ、好きな女の風呂まいど
ぉ一枚(いちめえ)買えねえで、町っ子の名がすたらぁ!」
「ですが、親分…」
「ごちゃごちゃ、いつまでもまだるっこしいぜぃ! おととい来やがれ!」
靖吉親分の剣幕に、正は黙り込んでしまいました。

「………あっしには、十六枚おくれ…」
「おお、おい、正! おめぇ、どういう性格してんだい!?」
「刷りを一枚一枚、確かめてから買いてぇんだが…」
正は見世先で、1枚ずつ念入りに、“銀色の夢・ちさと太夫”の浮世絵を選び
出しました。
「お、おい、正。…さっきの説教ぁ、ありゃ、なんだったんでぃ?」
「いえ、、下っ引のあっしとしちゃ、一応お止めするのが義務でやすから…」
「お、おめえ、おれより多く買うたぁ、いい根性してやがんじゃねぇかぃ?
十六枚(めえ)も、いってぇどうしやがんでぃ?」
「あっしん家(ち)の障子に、十六分割して貼るんでさぁ」

急展開しそうな事の成り行きにウキウキしながら、いえ、靖吉親分と正は、“
銀色の夢・ちさと太夫”のまとめ買いでウキウキしながら、街中へと散ってい
きました。
千里姫はといえば、もちろん日本橋の白木屋へ寄ったのは、言うまでもありま
せん。

(35)へつづく