ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(33)


(32)からつづく



さんざん野々のお説教を聞かされたあと、お屋敷内を走り回って野々をまいた
千里姫は、かねて示し合わせていた靖吉親分と下っ引の正とともに、ソッと市
中へと抜け出しました。
いつもの坂道を歩いていると、野々の追手に見つかりそうなので、今日は遠回
りして、駿河町の道筋を歩いていきました。

途中、江戸一の反物呉服/小間物屋・三井越後屋の前を通ると、岡っ引たちが
急かすのもきかずに、なんと半時も、広い店内を見て廻りました。
「これ、よか柄ねぇ。うち、派手好みだけ〜ん、こげな着物が着たかぁ!」
「ね、ねえ、姫君様。もう、参りやしょうぜぃ」
「靖吉親分、これ買(こ)うてくれんねぇ」
「じょ、冗談言っちゃいけやせんぜぃ。こりゃ、京の西陣でさぁ」
「だから、なんね?」
「正札を見ておくんなせぇまし」
「……いくらって書いとっと?」
「弐拾参両でさぁ」
「二十三両? たいしたこつなかねぇ」
「そそ、そりゃ、お大名の姫君様にゃ、てえしたことねぇかもしれやせんが、
こちとら町もんにとっちゃぁ、夢みてえな値段でさぁ!」
「あ、じゃあ、こっちにすっとぉ〜」
「こりゃ黄八丈でさぁ。拾参両って書いてありゃすねぃ」
「じゃ、こっちは?」
「こいつは、大島紬でさぁ。弐拾両ぽっきりですがねぃ」
「じゃ、こいはどうね?」
「こりゃ姫様、江戸小紋でさぁね。さ、参拾五両って正札にありやすぜぃ」
「…三十五両は1991年に払うけん、クレジットばきかんとねぇ? あ、ク
レジットカード落しちゃった。…じゃなかね、持ってこんかったとぉ!」

「ね、ねえ、姫様。髪結い床へ行くんじゃなかったんですかぃ?」
「んもう! どぎゃんして三越は、昔から高かとねぇ!」
「姫様、三井越後屋は、安売り店(だな)ですぜぃ」
「高島屋は、どけぇ〜ありよっと!?」
「豊川稲荷へ行くんなら、早めに立たねぇと日が暮れちまいやすぜぃ」
「競争ばせんと、いかんよ! 今度は、日本橋の白木屋に行こうかなぁ〜」
「ひ、姫様、買い物に出張ってきたわけじゃねえんでゃんしょう?」
「……うち、デパートには弱かねぇ」

江戸時代の三越、つまり江戸ファッションのトータルコーディネートができる
デパート三井越後屋は、<現銀掛値無し>=現金商売のみで掛け値なしの正札
商売をする店として有名でした。
つまり、値札通りで品物は売りますけれど、利幅はあらかじめ少なく設定して
おくという、いわば現代のスーパーマーケットやディスカウントショップの販
売法=薄利多売をしていたわけです。

そのせいで、日本橋界隈のデパート…いえ、小間物呉服反物の大店から憎まれ
てしまい、三井越後屋は日本橋を追い出され、駿河町への移転をよぎなくされ
ました。三井越後屋が日本橋へと復帰できるのは、明治以降になってからのこ
とです。

そして、もうひとつの白木屋は、小間物店から出発した店でしたが、やがて呉
服反物まで手を広げ、当時、三越をしのぐ百貨の大店(おおだな)でした。い
え、昭和初期まで、日本橋白木屋は、東京でもトップレベルのデパートでした。
それが、1932年の白木屋大火事をさかいに凋落し、太平洋戦争の直前から
は、日本橋東急百貨店として再出発しています。

「ほんじゃあ、こいでよかね」
さんざん見て廻ったあげく、千里姫は紅白の“やたら縞”の端切れを買いまし
た。いえ、おカネを持っていない千里姫は、靖吉親分にねだって、一朱で買っ
てもらったのですけれど…。
「うち、こんステージ用の端切れば、前々から色が好かんかったとぉ。ほんな
こつ、黄色より、やっぱ赤がよかぁ!」
さっそく鏡を見ながら、三井越後屋の店子に、“やたら縞”(正確には“千筋”
ですが)の紅白を、結髪へと結んでもらいます。
「ね、ねえ、姫様。…ひとつ、お願(ねげ)えがあるんでゃすが…」
田代の靖吉親分が、おずおずと言いました。
「なんな?」
「その、もういらねえ端切れ、あっしにいただけやせんでしょうかぃ?」
「…ああ、こんスタイリストがコーディネートしたやつねぇ?」
「…へ、へぇ」
「こげなもん、どぎゃんすっとねぇ? …はい、上げる〜」
「へぇ、ありがとうごぜぇやす!」
「ハンカチにでもすっとね?」
「あ〜〜〜〜〜、いい匂(にえ)えだ…クンクン…」
「…ぶ、無礼者のエーベックス者!」

途中、とんだ寄り道をしたものの、昼前には髪結い床へとやってきました。と
ころが、主人(あるじ)がまた留守だったのです。
「ねえ、姐さん。もうすぐ親方は、けえって来ると思いやすんで、お茶でも入
れますから、お待ちんなりゃしたら?」
また、昨日の小唄と、かいぐりかいぐり、それにジャンケンポンあっち向いて
ホイで遊んでもらいたい丁稚の大坊が、千里姫を引き止めました。

「へぃ、お茶をどーぞ!」
「なんでぇ、茶ったって、番茶じゃねぇか? 客に出すんだぜぃ、もっといい
茶はねぇのかよぅ?」」
田代の靖吉親分が、丁稚に文句を言います。
「鬼も十八で番茶も出花って、言いやすでしょう? これは出花で…」
丁稚の大坊が、ちょっと洒落て言います。
「おめえ、それを言うなら、鬼も十九で番茶も出花じゃねえのか?」
「いえ、親分。姫も十八で、番茶も出花でさぁ」
端から正も、ちゃちゃを入れました。
「おれぁ、姫も十九で番茶も出花…ぐれぇは、許せるがよう」
「はっはっはっはっはっ………は、はぁ…?」
一同、大笑いとなったのですが、千里姫が冷たい顔をして睨んでいるのを見る
と、急にみんな黙り込んでしまいました。

「うちが、21のオバさんで悪かったとねぇ…」
「…いいい、いえ、べ、別に姫様のことを、申し上げたわけじゃねぇんで…」
「もうすぐ22歳で、悪かったとねぇ!」
「い、いえいえ、そ、そういう意味じゃ…」
「ピチピチしとらんで、悪かったとねーーーー!!」
「お、おい、正。姫様がおかんむりでぃ。…なな、なんとかしろぃ」
「だって、親分が、姫は十九歳までは許せるって…」
「おれぁ、そんなこたぁ言っちゃいねぇ! ありゃ、おめえが言ったんでぃ」
「そそそ、そんなぁ…」
「ほんなこつ、3人そろうて、背泳ぎの練習ばすっとぉ!?」
「とと、とんでもねぇ!」
そんなオバカなことを、言ったりやったりしているうちに、ようやく店の主人
が帰ってきたのです。

千里姫が振り返ったとたん、髪結い床の主人は誰の目にも、驚愕で顔をひきつ
らせたように見えました。そして、二三歩うしろへと下がりながら、期せずし
てこうつぶやいたのです。
「ひひ、姫君様が、どど、どうしてこちらに!?」
小声でしたけれど、その髪結い床の主人は、確かにそう言ったのです。
「うち、どこぞで、お目にかかっとっと?」
「……あ、いい、いえ、それが…」
「うちんコンサート、どこぞで見てくれよったとねぇ…ってこつはなかねぇ」
「…は、はぁ?」
「おい、おめえ、大丈夫(でーじょうぶ)かい? 顔色が真っ青だぜぃ」
「あ…、はい。いえ、人違いをしましたようでごぜぇます」
「さしより、やってくれんねぇ」
「…へ、へぃ」

「枝毛が、少し増えよったとねぇ。下のほうば、3センチぐらいカットして、
そいから、ていねいにブローしてほしかぁ」
「…は、はぁ??」
「あ、言い方が、たいっぎゃ違(ちご)うとる。…髪を水髪に下ろして、枝毛
が目立ちよる、下から一寸ばっか、切ってくれんね」
「…へ、へいっ、承知いたしやした。…お、おい大坊、剃刀と櫛を、急いで持
っといでぃ」
千里姫の髪を下ろす、主人の手つきが震えています。
「こうして見るってぇと、水髪の姫様も、また格別だぜぃ」
靖吉親分がそう言ったとたん、髪結いは櫛を取り落としてしまいました。
「…こ、こちらは、どちらかのお屋敷の、姫君様なんで??」
髪結いが、慌てて櫛を拾い上げました。
「おっと、いけねえ。…そんなわけねーだろうが。はっはっはっ」
手慣れた手つきで、髪結いは千里姫の枝毛を落としていきます。

「わたしがオバさんになっても〜、泳ぎにつれてくの〜……」
「……今のは、なんでごぜぇますかぃ?」
丁稚の大坊が、親方の手元にあわせて、鏡の角度を変えながら訊きました。
「今、思いついた歌ねぇ。…派手な水着はとてもむりよ〜、若い子には負ける
わ〜。…歌詩がどんどん出てきよるぅ。すぐノートに、書いとかんといかん」
「ああ、和歌か川柳ってやつでぃ…」
大坊が無邪気に言いましたが、髪結いは、今度は剃刀を落としてしまいました。
「親方、どうされなすったんですかぃ?」
「…なな、なんでもねぇ…」
「おいおい、気をつけてくんなきゃ、困るじゃねぇか。ええ?」
靖吉親分が、見かねて口をはさみました。
「す、すいやせん。ちょっと、風邪を引いちまったみてぇで…」
「手元が狂ってよう、大事(でえじ)なうなじにでも怪我させやがったら、承
知しねぇからなぁ!」
「…す、すいやせん」
「それに、そんなに近くへ寄るなぃ。千里ちゃんに、風邪でもうつったらてえ
へんじゃねぇか」
そのとたん、今度は髪結いの身体が、ビクンと大きく波打ちました。

(34)へつづく