ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(32)


(31)からつづく



冨家の英吉は、真っ青な顔色を隠そうともせず、朝の出張仕事を終え、昼近く
になって両国広小路から金座(日本橋本町)をへて、神田方面へとようやく戻
ってきました。
道筋にある、書店(しょだな)という書店、貸し本屋という貸し本屋の店先に、
千里姫の似顔絵が貼り出されていたからです。

途中、両国広小路は西詰めにある五代目舞台の音羽座へ、顔を出すのは忘れま
せんでした。そこでは、鬼面党の音曲囃子方が、3月10日からの舞台へ向け
てリハーサルをしていたのです。

「おおお、親分!!」
冨家の英吉の顔を見ると、朝倉の武蔵丸が慌てふためいた様子で、さっそく出
迎えました。
「わかってらぃ! どーやら、三川藩のやろう、老中に届け出やがったな。町
中、姫君様の似顔だらけでぃ!」
「こ、これで、町方も加役も、本格的に動き出しますぜぃ」
呉谷の盛蔵が、少し震え声でつぶやきました。
「こうなったら、早えとこ上方へ高飛びしやしょうぜ、親分!」
朝倉の武蔵丸は、町方に顔を見られていることもあってか、すでに尻に帆かけ
て逃げ出しそうな気配です。

「でもよぅ、こりゃどーも解せねぇ。おかしかぁねぇかい?」
呉谷の縄蔵が、書店から買ってきた似顔を見ながら言いました。
「なにがでぃ?」
「だってよう、こりゃ似顔は似顔だがよぅ、普通の浮世絵とまったく変わらね
ぇぜ。手配絵のたぐいだったらよう、なんで店で売ってるんでぃ?」
「………」
「しかもよぅ、“銀色の夢・ちさと太夫”なんて名めえまで付いてるんだぜぃ」
「そう言われりゃあ、ちょいと変な気もするが…」
「いや、わからねぇ。こりゃ、火盗のワナかも知れねえぞ。似顔を浮世絵でバ
ラめぇて、こちとらが慌てて姫君様の様子を確かめに出かけるのぁ、どっかで
見張ってるって寸法かも知れねえ」
冨家の英吉は、腕組みをしながら考え込みました。
「でも、なんでそんな、七面倒くせえことをしやがるんだぁ?」
呉谷の縄蔵が、納得できないそぶりで首を振ります。
「そりゃ、おめえ、千里姫様がどこに閉じ込められてるのかを、まだ役人たち
ゃ知らねえからに相違あるめぃ。無事救い出すにぁ、それっきゃ手がねえって
ことさね」
「そんなもん、おれたちを捕まえて吐かしちまったほうが早かねぇかい?」
「や、やなこと言うじゃねぇか、呉谷縄のぅ!」
「しかし、名めえは千里姫と、ちさと太夫で一緒じゃねぇか。こりゃ、どう考
げえても、三川藩の千里姫様のことだぜぃ」
朝倉の武蔵丸が、決めつけたように言いました。

「そうか…、よ〜く考げえてみれば、ちょいと変な気もするぜぃ」
「お、親分までが、なんでぃ??」
「いや、錦絵の美人画は、もともと御法度のはずじゃねぇか。それでも、出回
ってるがよう、ありゃ、お役人の目こぼしってもんでぃ。その御法度の原則を
破ってまで、御上はこんな七面倒くせえことをするかなぁ?」
「し、しかしよぅ、親分…」
「あの生真面目で神経質で、融通のきかねえ白河老中が、こんな横紙破りの手
を許すはずがねぇ。いくら火盗や、町方の注進とはいえよぅ」
「じゃ、じゃあ、親分はいってえ…」
「こりゃよう、おれたちの知らねえところで、とんだ筋書きが進んでいるのか
も知れねえ…。姫君をさらわれたってのによう、三川藩に目立った動きがねぇ
っていうのも、こうなってくると、てえげぇ変だぜ。…どーも気に食わねぇ」

その日のうちに完売しそうな売れ行きの、“銀色の夢・ちさと太夫”の浮世絵
でしたけれど、夕方になって町役人の手入れが始まり、わずかに売れ残ってい
た浮世絵は、すべて店先から没収となってしまいます。
特色の目立った銀色を遣ったのが、役所の目こぼしの範疇を超えて、奢侈禁止
の御定法に触れたらしいのです。

また、これものちのちの話ですが、版元の戸澤屋克次郎は、お取り調べののち、
手鎖五日の刑に処せられたそうです。この手の刑罰としては、とっても軽くて
済んだ理由は、のちほど物語の筋道で、おいおい明らかになります。
そして、作者の岡本淳蔵ですが、彼がその後どうなったのかは、これもまた巻
末のお楽しみ…ということで。

冨家の英吉の予感どおり、“銀色の夢・ちさと太夫”の取り締まりが行われた
ことで、似顔の配布は、町方や火盗の仕業ではないことが明らかになりました
けれども、そのころには鬼面党一味はもちろん、1991年の千里姫もホンモ
ノの千里姫も、そして他の登場人物たちも、まったく違った場面展開を迎える
ことになります。

さて、冨家の英吉は昼近くになって、ようやく神田錦町にある自分の店(たな
)へと帰り着きました。
「今、帰ったよ」
浮かない声で、髪結い暖簾をくぐります。
「ああ、おかえりなさいませ、親方!」
丁稚の大坊が、勢いよく迎えに出ました。
「さっきから、ずーっとお客さんがお待ちですぅ」
「誰だい?」
「昨日の、すんごくきれえな女の人でやす」
「昨日の?」
「ほら、ヨシ公元気だったかい〜の、かいぐりかいぐりで、ジャンケンポンあ
っち向いてホイの、きれえな姐さんでやすよ」
「…ああ、ちょいと頭のおかしな、女客かい」
「シーーーッ、聞こえますよ、親方」
「…そうかい。じゃあ、昼飯前にひと仕事するかねぇ」

店の奥に入って行くと、畳敷きの上に、その娘がうしろ向きで坐っていました。
でも、その向こうに、2人の十手持ちの姿を認めると、鬼面党の首領の背筋に、
さすがに冷たい汗が一筋、ツツーッと伝わりました。
「き、昨日は申しわけありやせん。ちょいと野暮用で、店を空けやしたもんで
すから…。す、すぐに仕事をさしていただきやすんで…」

振り返った娘を見た途端、冨家の英吉は顔をひきつらせ、二尺ほど飛び上がら
んばかりに、驚愕してしまいました。

(33)へつづく