ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(30)


(29)からつづく



「ただいま、帰った!」
小林弘之進は、本郷の自宅に戻ると、不機嫌そうに玄関先へ大小を放り出しま
した。奥のほうから、なにやらワアワア、声が響いています。

「お、お帰りなさいませ!」
蘭学弟子の、佐藤兄弟が出迎えました。
「あれは、いったいなんの騒ぎじゃ?」
「そ、それが、奥方様が、どうしても集声器と拡声器の試作で、小唄を唄われ
たいと申されまして…」
佐藤英次郎が、大小を抱えながら答えます。
「お、お止めしたのでござりまするが、どうしてもと…」
佐藤由エ門が、足を洗う桶水を用意します。
「あ、あれに触ってはいかんと、重々申しつけたではないか! まだ、にわか
作りの試作品じゃ!」
「はあ、しかし奥方様の小唄好きには、拙者ども勝てませぬゆえ…」
小林弘之進が、急いで実験室におもむくと、奥方が集声器を口に当てて得意の
小唄を唄っている最中です。

「これっ、悠子! 主人が戻っておるのに、出迎えもしないでなにをやってお
るのだ??」
「…花のぉ〜お江戸のぉ〜夜桜ぁ〜、三間〜見ぬ間のぉ〜…」
「うるさい! 音量をもっと下げぬか!」
「早いわいなぁ〜、小夜嵐(さよあらし)ぃ〜…」
「悠子!」
「…あ〜ら、どこのお屋敷のご主人が、帰宅されたのでござりましょうや〜?」
集声器から口を離さないまま、奥方がようやく答えました。
「この屋敷に、決まっているではないか!」
「…このお屋敷に、主人などいたのでござりまするか〜?」
「な、なにを言う!」
「…聞きますれば、一昨夜は大番屋の仮牢にお泊りとか? 鈴木様の奥様にう
かがいまして、わたくし大恥をかいたではござりませぬか」
「あ、あれは……だな…」
「それに、昨夜は、吉原にお泊りとか?」
「そ、そんなことはない!」
「あ〜ら、英次郎と由エ門が、みーんな話してくれましたわ〜」
「……あ、あいつらめぇ〜」
「なにが学問の追い込みで、徹夜でござりまするか? なんの実験をされてお
るのか、知れたものではござりませぬなぁ」
「い、いや、悠子。そ、それは、誤解というものだ。吉原で拡声器を使ったと
いう、手塚聡三郎先生の実験を、現地で確かめてみたかったのだ」
「現地で、なにを確かめておられるのやら…」
「ゆ、悠子! そ、そちは、学問のことに口出しするでない!」
「わたくしめは、この空桶(からおけ)がとっても気に入ってしまいました」
小林弘之進の奥方が、空の小さな桶を先端に付け、底の針穴から竹筒を通じて、
絹糸を張り出してある集声器を振りながら、また唄い出しそうな気配です。

「そ、それは空桶ではない! 集声器というものだ」
「シュウセイキなどと難しい名前より、見たままの空桶のほうが、憶えやすく
てよいではありませぬか」
「ええいっ、それには、まだ触ってはいかんと申したではないか!」
「気持ちよく、声が響きまするなぁ。まるで、湯殿で唄うよう〜…」
「の、のんきに、小唄など唄っている場合ではないわ! わたしは、今日付け
で、湯島のご聖堂をクビになったのだ!」
「あらかた、女学生にでも、手を出されたのでござりましょう?」
「な、なにを申しておる! 女学生など、おらぬわ!」
そのとき、佐藤英次郎が襖の陰から言いました。
「鈴木淳乃介様が、おみえになりました」
鈴木淳乃介が、取り次ぎも待たずに、バタバタと走り込んできました。
「小林殿! 拙者、今日付けで、ご聖堂を解雇されてござる!」
「わたしもです、鈴木殿」
「それがしは、本日は講義がないゆえ、自宅で読書をしておったところ、ご聖
堂朱子学師範の金子殿からの使者とて、突然に解雇通知をもらいました!」
「わたしは、朱子学学頭の平泉一成様に呼び出され、そこもとは明日から来な
くてよい…などと言われ申した」
「こ、これは、本格的な蘭学に対する、締め付けでござる!」
「陰では、白河老中が糸を引いておるな…」
「…ど、どうしましょうぞ、小林殿!」
「ご聖堂は、まさに建立された当時の、時代遅れの儒学学校へと逆もどりでご
ざるな。せっかく、さまざまな学部がそろってきたというに…」
「それがしは、百石の貧乏旗本ゆえ、明日からの生活にも困りまする」
「いや、鈴木殿。それは、それがしとて同じこと。百五十石では、とても一家
をやしなえませぬ」
「ふ〜〜む…」

「今度ぉ〜、わらわを〜、どこぞへ連れて〜、行ってぇ〜、くださりましょう
やぁ〜…」
「これ、悠子! 小唄など唄っておる場合ではないわ!」
小林弘之進は、奥方をニラみつけたのですが、その唄う姿を見ているうちに、
顔がみるみる明るくなっていきました。
「…そうじゃ!!」
「ど、どうされたのでござる? 小林殿?」
「これ、これでござる! 拡声器でござるよ!!」
「こ、この拡声器の試作品が、どうかしたのでござるか?」
「鈴木殿、これを量産して街中で売れば、どうでござろう!?」
「…売るというと、町人にでござるか?」
「そうじゃそうじゃ、料理屋でも待合いでも、浮世風呂でもよい! とにかく、
歌を唄いそうな場所へと、売り込むのです!」
「…あ、なるほど」
「さすれば、江戸の小唄好きにはたまらぬ機械(からくり)ゆえ、飛ぶように
売れるというもの!」
「な、なるほど! それは妙案でござるなぁ!!」
「ならば、それがしたちは生活にも困らぬ!」
「…さすが、小林殿! 発想が違いまするなぁ!」
「五十両ほどで売り出せば、十台売れれば五百両でござる!」
「し、しかし、ちと高すぎはしまいか…?」
「いや、最初は高くしておいて儲け、徐々に値を下げていって薄利多売、隅々
にまで浸透させるという寸法でござる」
「なーるほど…。小林殿は、商売人でござるな」
「長屋に一台拡声器…。これが、これからの江戸流行りでござるよ!」
「しかし、小林殿。拡声器というのは、ちと野暮な名称でござろう」

「あなた、それに鈴木様、これは絶対に“空桶”でござりましょう」
奥方が横合いから、唄うのをやめて口をはさみました。



「なになに、<千里姫、御預かりのこと。三月十日の暮れ六ツに、豊川稲荷で
身代金三千両受渡しの件、故ありて前日の三月九日の同場所同時刻に変更す。
御存知鬼面党>…。なにをいつまでも、寝ぼけたことを申しておるのだ!」
家老の西村修衛門は、矢文を読んだあと、それをビリビリに引き裂いて屑篭に
入れてしまいました。

「して、野々殿。姫君様に、変わったご様子はござらぬよのう?」
「で、ですから、ご家老様! 姫様はここ数日の間、変わったご様子ばかりで
ござります!」
「して、木曽忍者は戻っておるのかな?」
「………最近は、人の話を聞かぬ人が、増えたものじゃ」
「なにか申したか、野々殿?」
「…い、いいえ」
「木曽忍者は、戻っておるのだな?」
「…はい、先ほど町方同心のなにがしかとともに、姫君様のお部屋の前庭に、
控えておりまする」
「ふむ、それはひと安心じゃ」
「な、なにが、ひと安心なのでござりまする!? 町奉行所の同心風情が、こ
のお屋敷へ、勝手に入り込んでおるのでござりまするぞ!」
「しかし、姫君様を市中でお守りしている輩(やから)と聞いたが…」
「そ、そのようなことで、見過ごせる問題ではございませぬ!」
「姫君様も、たいそう気に入られているとか…」
「で、ですから、そのような…」
「しかし、市中町方とは仲良くやれとは、殿のご意向なのでな…。これも、お
家の、行く末のためでござる」
「…んもう、このお屋敷は、どうなってしまうのでござりまする!?」
「野々殿も、心配性だのう。そんなに心配ばかりしておると、早々に薹が立っ
てしまいまするぞ。はっはっはっ」
「…そ、そのようなお言葉、どーせご家老様は、奥方様にでも言い含められた
のでござりましょう」
「…い、いや、そうではない」
「図星でござります! お目が宙を、さまよっておられまする!」

お屋敷の庭の燈篭灯が、猪脅しのある池面にゆらゆらと揺れています。うらら
かな、春の宵でした。

(31)へつづく