ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(29)


(28)からつづく



「ほれほれ、肩まで漬かりよっと、やっぱ気持ちがよかねぇ」
湯殿付女中がひとりもいなくなったお風呂場で、洗濯を終えた千里姫は、もう
一度お湯に漬かっています。

「姫君様、いい加減になされませ!」
洗濯を手伝った野々が、黄絣を絞りながら不機嫌そうに言いました。
「野々しゃんも、一緒に入らんねぇ」
「なにを申されます! 姫君様とご一緒に入るなどと、わたくしめに自害され
よとの、おおせでござりまするか!?」
「なんば言っとっと??」
「早く、お出になりませ!」
「あ〜〜、春の夜風が気持ちよかぁ! 夜桜の花びらが、窓から入りよるぅ〜」
「天窓格子を、閉めねば…」
「閉めんでよかぁ。夢んごたる、よか気分たい」
「…もう、姫君様!」

「♪風が吹いてきた〜、今日あなたと別れた〜…」
「………」
「♪いつもの街だけれど〜、色が違ってみえるわ〜…」
「………」
天窓格子の外を、一陣の風が吹き渡り、桜の花びらがいちだんと湯殿の中へ、
吸い込まれるように落ちてきました。
千里姫が漬かる湯水面に、花びらがたくさん浮かんでいます。
「♪好きよ、好きよ、好きよ、好きよ、あなたが〜…」
「………」
「♪そのささやく声が〜、すてきだったの〜…」
「………クッ」
「…野々しゃん、どぎゃんしたと?」
「………クククッ」
「…な、なんば、泣いとっとねぇ!?」
「…い、いえ、久方ぶりに、千里姫様のALONEを聴いて、わたくしめは、
もうこのまま死んでも本望でござりまする! …花に嵐のたとえもあるわ、さ
よならだけが人生ね……の心境でござります」
「…♪好きよ、好きよ、好きよ、好きよ、今でも〜…」
「………」
「♪ひとりぼっち〜、どうすればいいの〜…」
「…やはり、千里姫様におかれましては、これをお唄いいただきませぬと、わ
たくしめは、絶対に納得できかねるので……」
「ねえ、急にどぎゃんしたとね?」
「……ハッ! つつ、つい姫様のお戯れに乗せられて、わ、わたくしの大事な
お役目を、忘れるところでござりました! そ、そのような下賎な歌を唄われ
ていないで、早くお部屋に戻られなさいませ! もう、お休みの時間でござり
ます!!」

そのとき、湯殿の外で、バシッという大きな音がしました。
「…なんね? なんの音??」
「誰じゃ!?」
「………」
「…姫様は、ここに、じっとしていてくださりませ!」
野々はそう言うと、すばやく湯殿を出て行きました。音を聞きつけてやってき
た家臣と、野々の声が外でしていたかと思うと、急にバタバタと走り回る音が
聞こえます。
「曲者じゃ! 出あえ〜っ! 出あえ〜っ!」

「ま〜た、曲者ね?」
野々が戻ると、千里姫は訊きました。
「こ、この湯殿の外壁に、矢文を射た者がござりまする!」
「また、矢文? 鬼面党だろかぁ??」
「さ、さあ、わかりませぬ。それより、姫様、ここは危のうござります! 早
く、早くお召し物を着てくださりませ!!」
「もうちょいだけ〜ん」
「姫君様!! ど、どうして姫君様が戻られると、決まって曲者騒ぎが起こる
のでござりまするか!?」
「知ら〜ん」
「ささ、早くお出になされませ!!」
「…わかったとねぇ」
千里姫が、湯船から上がろうとすると、突然、天窓の外で野太い声がしました。
「やはり、こちらでござりましたか。千里姫様」
「キャーーーーーーッ!」
千里姫は、再び湯船の中に急いで漬かります。見上げると、屋根の上から逆さ
まに、木曽忍者が天窓格子の外で、ニコニコ手を振っています。
「ひーーーーーーーっ!」
野々は、驚いて腰を抜かしてしまいました。

「いやぁ〜、それがしどもは、あちらこちら、江戸中をお探しいたしました」
「…わ、渡部しゃんは、どぎゃんしたとね!?」
「ここに、おりまする」
見ると、木曽忍者の隣りに、もうひとつ逆さまの顔がニュッと出ました。
「ふ、2人とも、モモンガーになっとっと! たいっぎゃエーベックス・モモ
ンガーたい!!」
「あ、いや、昼間は大人げないことで、失礼つかまつりましてござりまする」
同心の渡部が、済まなそうに言いました。
「いえ、あれから、姫君様がいなくなられてからというもの、それがしたちは、
たいへん反省をいたしまして…」
木曽忍者がつづけました。
「…そそ、そこもとは、木曽忍者ではないか!」
野々が、ようやく声を振り絞ります。
「ははぁ、野々様でござりますか?」
「も、もうひとりの忍びは、誰じゃ!?」
「この者は、忍びではござりませぬ。町方同心の、渡部殿でござりまする」
「な、なに!? 今、なんと申した!?」
「ははぁっ、南町奉行所・定廻り同心の、渡部越後朗と申しまする! このよ
うな高所から、まことに僭越ではござりまするが、以後、お見知り置きくださ
りませ!」

「ひ、姫君様の湯殿を覗き込んで、そ、そちたちは、いったいなにをしておる
のだ!? 気でも狂うたのか!? こ、この無礼者め!!」
「い、いえ、こちらで姫君様のお唄いになる声が、聞こえたものですから…」
「ええい、黙りおろう! 早く、早く消えぬか、コウモリ男め!!」
「い、いえ、湯殿は暗くて、それに湯気でお姿も見えませぬ」
「そのような問題では、なかろうが!」
「…ただ、ボーーッと白いお姿が…」
「こ、この狼藉者!!」
「べ、別に姫君様の湯殿を覗こうなどと、そのような大それた気は毛頭ござり
ませぬ。…ただ、お声が聞こえたもので…」
「ええい、長の弁解など無用じゃ! 早く消えぬと、ご家老に報告しますぞ。
そうなれば、庭先で切腹は間違いのないこと!」
「は、はい、あい済まぬことでござりまする!」
「それに、町奉行に注進すれば、町方の御家人風情が大名屋敷へ忍び込むなぞ、
そちは即刻、打ち首じゃ!」
「ははぁっ、そそ、それだけは…。も、申しわけござりませぬ!」
「ねえねえ、野々しゃん。渡部しゃんは、町ん中で木曽忍者さんと一緒に、う
ちを守ってくれよっとねぇ。飴も買ってくれよったしぃ〜」
「そのようなこと、野々は存じませぬ!」
「会社ば休んで…じゃなかぁ、お役所ば休んで、護衛ばしてくれたとぉ。そい
に、昨日はお家に泊めてくれよったとねぇ」
「そ、そこらの町屋敷へ、お気軽に泊まられてはなりませぬ!」
「ばってん、なんもなかとねぇ」
「そ、それが、なぜゆえ姫君様の湯殿を、こっそりと…!」

「ねえねえ、今さっき、また曲者ば侵入しよったと!」
「な、なんと!?」
「木曽忍者さんは、なにも見なかったとねぇ?」
「…さ、さあ〜、なにしろこの闇夜ゆえ…」
「そのへんに、ま〜た、矢文が刺さっとっと?」
「……おおっ! こ、これは、確かに、まさしく矢文でござりまする!」
「あた、ほんとに忍者ね?」
「はい、忍者でござります。…して、渡部殿は、なにか気づかれたか?」
「さ、さあ…、拙者は、湯殿に気を取られてたゆえ…」
「…あれ? そういえば渡部しゃん、今夜のお勤めば、どげんしたとね? 昼
間、夜勤ば言うとったじゃなかね?」
「は、はぁ、身体の調子がすぐれぬということで…」
「あ、ずる休みたい!」
「へっへっへっ」
「ふふふっ」
「こ、このようなところで、世間話はおやめくだされ!! 木曽忍者に町方の
渡部とやらは、まるでコウモリのように屋根から逆さ吊りになって! 姫君様
はと申さば、先ほど湯殿で一糸まとわぬお姿で、洗濯などなされて!……」
「…も、もう少し早めに来るのだったな、渡部殿」
「い、いかにも、木曽殿」

「…もう、いったいぜんたい、三川のお屋敷は、どうなっているのでござりま
するか!? もはや、この野々の理解の及ぶ範囲を、と〜〜に超えております
る!」
野々は、ようやく気を取り直して、気丈にそう叫ぶと、二人の男たちを睨みつ
けながら、内側から天窓のはすがい格子を、ピシャリッと閉めてしまいました。

(30)へつづく