ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(27)


(26)からつづく



「やはり、鬼面党の矢文は、悪戯であったのう」
三川の殿様は、酒を飲みながら奥方と家老に言います。
「まったく、人騒がせよのう。鬼面党とか申す者たちも…」
「ほんに、千里は元気に走り回ってくれまする。これで、安心して十日の芝居
見物に行けるというもの…」
お酌をしながら、奥方も機嫌よく微笑みました。

「そうじゃ、芝居にはぜがひ、姫も連れて行こうぞ」
「ああ、それは殿、よいお考えにござりまするなぁ」
「それに、わしは、そちの幕の内弁当が楽しみでな」
「また紀州の梅干しを、たんと入れるのでござりますか?」
「そうじゃ、そうじゃ。紀州の梅干しに、練馬大根の煮付けに、浅草海苔とカ
ツオ節を敷いた白米じゃ。食後の水菓子は、甘瓜(メロン)じゃぞ」
「ほっほっほっ、殿のお弁当は、安上がりでござりまする」
「はっはっはっ、姫の弁当のほうが、よほど豪華であろうのう?」
「あの子は、その日に八重洲河岸から寄せた魚以外は、絶対に食べぬゆえ…」
「そのような贅沢、誰に似たのかのう?」
「間違いなく、わたくしめにごさりまする」
「これは、一本取られたのう。はっはっはっ…」
「ほっほっほっ…」

「お、怖れながら申し上げます! いまだ、江戸のちまたでは、鬼面党が捕ま
ってはおりませぬゆえ、ここは外出するのはお控えになられたほうが…」
「西村、そちはいつも心配のしすぎじゃ。心配性じゃのう」
「そうでございますよ、西村殿。千里をご覧なさい。物怖じせず、元気いっぱ
いで市中を、走り回っているではありませぬか?」
「そそ、それが、問題なのでござりまする! 先ほども、門前で町人と、お気
軽に世間話などをされていたとか…」
「よいではないか。ここは、天下の江戸表。別に武家と町人とが世間話をした
とて、おかしゅうはない。そのような堅苦しいことを言うておると、時代に取
り残されてしまうぞ」
「し、しかし…」
「いまや、わが藩の借入金の七割方が、市中の蔵元・札差からのものであるこ
とは、そちもよく存じておろう? 町人の財がなければ、わが藩は立ち行かぬ
ことぐらい、わしでさえよくわきまえておるわ」
「そ、それと、これとはお話が…」
「いや、違わぬ。これからは、町人の助力なくしては、幕藩体制は立ち行かぬ。
そのような時勢にもかかわらず、先年のご老中の采配は、明らかな失策じゃ。
わが藩が、札差への債務を放棄せぬのは、先の時代を読んでのこと」

ここで、三川の殿様が、先年の老中の采配と言っているのは、武士階級が借り
た、市中蔵元や札差からの膨大な借金を一方的にチャラにしたという、松平定
信の「棄捐令(きえんれい)」のことです。
つまり、銀行から借りたおカネを、もういっさい返済しなくてもいいという、
とんでもないお触れを出したわけでした。

これにより、多く借金を抱えていた、特に幕府膝元の旗本や御家人たちは、「
白河松平大明神」と喜びましたけれど、おカネを貸していた町人たちからは、
松平定信はとことん恨まれることになります。
必要以上の奢侈禁止を、一方的に町人に押しつけ、火付盗賊改の“鬼平”に象
徴的な弾圧政策をとったのと併せて、これ以降、江戸市中における松平定信の
威信は、坂道を転げるように低下していきました。

江戸時代も中後期になると、市中での評判の善し悪しが、老中の座でさえ揺る
がしかねないほどに、江戸の町人の力は強大になってきていました。
三川の殿様が、自藩に対する蔵元や札差からの債権を保護したのは、そのよう
な町人たちからの恨みと、信用失墜を避けるため…と解釈できますね。

「そ、そのような、まつりごとに対する殿のしっかりとした展望のお言葉…、
それがしは久方ぶりに拝聴いたしまして、とても嬉しゅうござりまする!」
「はっはっはっ、皮肉かのう? 西村?」
「い、いえ、めっそうもござりませぬ!」
「町人から疎まれたりすれば、藩経営は終わりじゃ」
「それは、そうでござりますが、しかし、姫君様とはぜんぜん関係のない…」
「それが、関係があるのじゃ」
「ど、どう関係が、おありになるのでござりまするか?」
「よいか、姫が江戸市中を出歩くであろう? さすれば、あの器量じゃ。たい
へんな評判を呼ぶではないか…」
「はぁ…」
「しからば、千里姫の錦絵や千里姫の帯、千里姫扇に千里姫簪(かんざし)に
千里和歌集に、ひょっとしたら千里姫ミニクロウタが、町人の間で流行るかも
しれぬ」
「は、はぁ…」
「それら千里姫印の品物は、江戸で評判となれば日本各地でも、もてはやされ
ることは必定」
「…はぁ」
「わが藩は、それらの版権を一手に独占して儲けるのじゃ。これで、わが藩の
渡良瀬川や印旛沼の、幕府御用普請をはじめとする支出勘定が、大幅に削減で
きるというもの」
「……はぁ」
「姫の品物の版権で、わが藩はこの先三十年、安泰となるであろうが? 市中
からの借入も、しないで済むという寸法じゃ」
「なな、なるほど…」
「町人から借りた金子(きんす)は、町人によって支払ってもらう…。これが、
わしの考え出した、藩経営の進取哲学じゃわ」
「…さ、さすが、珠里亜守(じゅりあのかみ)様でござりまする。そのような
版権を盾とする経営戦略、どこの大名家でも思いつきませぬ!」
「はっはっはっ」
「…し、しかしながら、殿。これは、獲らぬタヌキのなんとやらで…」

「まつりごとのことは、よくわかりませぬが、西村殿のように心配ばかりして
おりますと、早々に薹が立ってしまいまするぞ」
「ほれほれ、奥も、ああ申しておるではないか。はっはっはっ」
「し、しかし、千里姫様は、女(おなご)であらせられますゆえ…」
「これ、西村殿。聞き捨てなりませぬぞ。女が江戸市中を歩いて、なにがいけ
ないのでござりまするか?」
「は、ははぁっ、い、いいえ…」
「男も女も〜、関係ないのよ〜、夢を持つのよ〜…とは、千里の和歌ですが、
実際わたくしも、そう思いまする」
「い、いえ、そのような意味では…」
「わたくしが芝居見物をしては、いけないのですか?」
「い、いえ、決して、決してそのようなことは…」
「家老殿も、千里の和歌を、少しは聴きなされませ」
「は、ははぁっ」
「今度の市中への芝居見物、西村殿も来るのですよ」
「それそれ、奥のご機嫌が悪くなった。西村、ここは逃げるが勝ちじゃ」
「ははぁっ!」

家老の西村は、そそくさと奥座敷から退きました。
自室へ戻る途中で、懐中から取り出したのは、岡本淳蔵から召し上げた“銀色
の夢・ちさと太夫”の錦絵です。
「男も女も〜、関係ないのよ〜、夢を持つのよ〜…か…」
そのとき、千里姫の部屋のほうから、野々の叫ぶ声が聞こえてきました。
「ひ、姫様、いけませぬ! なな、なにをなさるのでござりまするか!?」
家老の西村は、ため息とも笑いともつかぬ息をフッと吐くと、大事そうに錦絵
をしまいながら、「世の中は、変わったのう…」とつぶやきつつ、ゆっくりと
自室へ引き上げて行きました。

(28)へつづく