ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(24)


(23)からつづく



(やっぱり、呉谷の縄蔵の言ったことは、ほんとうらしいぜぃ…)
冨家の英吉は、神田錦町にある自分の店に戻る途中、背後の気配に、全神経を
集中していました。英吉の背後から、付かず離れず、誰かが尾けてくる気配が
かすかにするようです。
振り向くと、どの人影が尾行しているのか、見当がつかないのですが、また前
を向いて歩き出すと、確かに、誰かに見張られているようなムズがゆい感覚が、
背筋をゆっくりと這いのぼってくるのでした。
(これだけ巧妙な尾行は、どう考ぇても町方じゃねぇ)
英吉は、急ぎ足で町角を何度か巡ります。

冨家の英吉は、神田錦町の髪結い床を空けて、垢離場の棟割長屋へと押し込ま
れた、五代目市川団十郎一座へと出かけていたのでした。
もともと、一座は両国広小路の音羽座に近い、浅草橋に居をかまえていたので
すが、幕府の命令で江戸の役者や芸人は、すべてこの垢離場界隈=ゲットーへ
と強制的に集団移住させられていたのです。

英吉の用向きというのは、一座へと降りかかったとんだハプニング。積年の団
十郎贔屓がやまぬ大奥女中のひとりが、芝居の端境期にもかかわらず一座に押
しかけて来て、髪振り乱しながら五代目に道行き心中を迫った…などというの
です。
ようやく落ち着いた奥女中の髪直しに、冨家の英吉が一座へ呼ばれた…という
わけでした。英吉を呼びに来たのは、囃子方の名和の一之助です。

そんな艶っぽい話とは裏腹に、鬼面党の面々が顔をそろえると、呉谷の縄蔵が、
気になることを漏らしたのです。
「どうも、町中ぁ歩ってるってぇと、うしろのほうでワサワサしやがんでぃ」
「そりゃおめえ、どういうことでぃ?」
冨家の英吉が、気になって尋ねます。
「いや、誰だか知らねぇが、おれのあとを尾けてるやつがいるような気がして
なぁ…」
「そ、そりゃまさか、武蔵丸を追いかけたってぇ、町方じゃねぇか?」
名和の一之助が、鋭い目つきをしながら言いました。
「いや、町方じゃねぇと思う。おれぁこれでも、この道十年だぜぃ。町方の匂
いなら、すーぐにわからぁね」
「じゃあ、呉谷縄のぅ、おめぇはなんだと思うんでぃ?」
冨家の英吉が、不審そうに訊き返します。
「さぁ、それがわからねぇ…」
「いや、おれもそういえば…」
呉谷の盛蔵も、思い当たるフシがあるのか、口を挟みました。
「なんでぇ、兄貴?」
「うん? …いや、おれぁおめえほど、はっきりした覚えはねぇがよう。ただ、
この前、三味の皮ぁ張り替(け)える用で、柳橋まで出かけたときにだ、花見
をしていた同じ侍連れに、三度も会ったんでぃ」
「侍たぁ、三川藩か?」
縄蔵が、小太鼓の手入れの手を止めながら訊きます。
「いや、今度の一件の前(めえ)の話よ。日に三度も、同じ面に会うたぁ、妙
な気がしたんだぜぃ」

「…まさか、…加役」
名和の一之助が、息を呑みます。
「ま、まさかぁ…。別に、人を殺(あや)めてるわけでも、火付けぇしてるわ
けでもねぇんだぜ。なんで加役が、出張ってくるんでぃ?」
呉谷の盛蔵が、さすがに怯えた声を上げました。
「いや、そろそろ火盗が動いても、おかしくはねぇころだぜ」
冨家の英吉が、髪結いの道具を弄びながら言います。
「な、なぜでぃ、親分?」
呉谷の縄蔵が、身を乗り出しました。
「おれたちが仕事をしてんなぁ、大名屋敷や旗本屋敷、それにめぼしい大店(
おおだな)がほとんどだぜ。くすね銭ぁ、もう四千両を越えてらぁ」
「…そ、そうかぁ、そろそろ御上の威信ってぇやつかい」
呉谷の縄蔵が、吐き捨てるように言いました。
「そうさね。町方じゃ頼りにならねぇ。…ってぇことは?」
「……残るは、火盗しかねぇわけか」
名和の一之助が、つぶやきました。
「しかし、親分! こりゃ、ヤバイことになりますぜぃ!」
「おう、ガタガタするんじゃねぇ!!」
冨家の英吉が、一喝しました。

「いいか、おれたちゃこの仕事を、世直しのために始めたんじゃなかったのけ
ぇ? ええ?? 白河老中に、ひと泡吹かせるつもりじゃなかったのかよぅ?
…いいか、どれだけの罪もねぇ、芸人や偽作者や浮世絵絵師や、大勢の町人た
ちが、わけのわからねぇ奢侈禁止だぁ、贅沢禁止だぁのご禁令で、大島や八丈
へ島流しにあったと思ってるんでぃ!?」
「そ、そりゃ分かるがよう。…町方と火盗はぁ、別もんだぜぃ」
呉谷の盛蔵が、あたりを気にしながら言いました。
「いいか、捕まりゃ死罪は覚悟の上でぇ。十両くすねたら、打ち首獄門は当た
りめぇじゃねえか。おれたちゃ、とっくの昔に、その一線を越えちまってるん
だぜぃ」
「………」
「おめぇら、なんだか近ごろ、様子がおかしいぜぃ。姫様をかどわかしてから
ぁ、妙に丸くなっちめぇやがって…」
そういう冨家の英吉自身も、千里姫とここ数日接するうちに、以前のとんがっ
てささくれ立っていた性根が、なぜだか言い知れぬ、優しい気持ちへと癒され
ていくのを、どうすることもできずに持て余していたのです。
「…よし、今度の三川の一件が済んだら、ほとぼりが冷めるまで、上方へ高飛
びでもするか…。ちょうど、潮時かもしれねぇ」
「親分、そうしやしょうぜぃ。姫様を、早くお帰ししてあげやしょう」
呉谷の縄蔵が同調しました。
「いいや、三千両をいただいてからでぃ」
「もう、いいじゃねぇかぃ。冨家のぉ」
呉谷の盛蔵も、弟の肩を持ちます。

「身の代金の受け渡しを、三月十日より前(めえ)にする。おい、呉谷盛のぉ、
もういっぺん三川藩の上屋敷へ、矢文を打ち込んじゃぁくれめえか? 三千両
は、あさって九日の暮れ六ツにいただくことにしようぜ」
「…がってん」
「それから、千里姫様だがよう、三千両をいただいたあとぁ、おれが神田まで
送ってくらぁ」
英吉が当然のように言います。
「…そ、そりゃ親分、殺生でぃ!」
「なにが殺生なんでぃ、呉谷縄のぅ?」
「だってよう、おれだって、姫君様をお送りしてぇぜぃ」
「そ、そうだ、おれもだ!」
名和の一之助も急いで加わります。
「おれもだぜ、親分!」
と呉谷の盛蔵。

「こいつぁ、やっぱり、ジャンケンで決めようぜぃ」
呉谷の縄蔵が、さっそく手の甲に爪を立てて筋目を読みます。
「そりゃいいや、そいつが公平ってもんだぜぃ」
兄の盛蔵も、賛成します。
「じゃ、じゃあ、仕方がねぇか…」
冨家の英吉は、もっと普段から首領面をしてくればよかった…と後悔をしなが
ら、手を合わせてできた穴を覗き込む、京風の筋目読みをしました。
「じゃ、いくぜぃ…! ジャ〜ンケ〜ン…」
「ちょっと待ったっ! 水車小屋で姫様の見張りぃしてる、朝倉の武蔵丸はど
うするんでぃ。あいつだけ、退けもんかい?」
「………」
「………」
「………いくぜぃ! ジャ〜ンケ〜ンポン!!」
4人が4人とも、必死の形相でジャンケンをしています。
「お、おめぇ、あと出しはいけねぇぜ!!」
「親分こそ、あと出ししやがって!」
「おい、もう一度いくぞ! …ジャ〜ンケ〜ンポン!!」
「ア〜イコ〜デショ!!」

どうやら尾行をまいたのか、背後の気配が消えて、冨家の英吉はようやく神田
錦町の自分の店へと戻ってきました。
店の前に落ちていた蓑を蹴とばすと、不機嫌そうに店内に入って行きました。
…ジャンケンに負けたのです。
「へいっ、お帰(けえ)りなさいませぇ〜!」
まだ15歳になったばかりの丁稚の大坊が、髪結いの親方を出迎えます。
「誰かぁ、客はなかったのかい?」
「へいっ、ありゃした! 女の客がひとりでさぁ」
「そんで?」
「へいっ、明日また来るそうです」
「へぇー、横丁の色狂いの雛菊婆ァかい?」
「いいえ、とってもきれえな女の人でした。初見えです」
「深川か、本所の芸者かい?」
「いいえぃ」
「じゃ、誰だい?」
「親方、あっしはあんなきれいな姐さんを見たのは、産まれて始めてですぜぇ!
しばらく、そこの…いま親方が座ってなさるとこへ腰掛けて、小半時ほどお待
ちでしたけど、ついさっき帰(けえ)っちまいましたぁ」
「そりゃ、悪(わり)いことしたぜ」
「待ってなさる間、小唄ぁ唄ってやした」
「…どんな歌だい?」
「ええと、……えっと、……ヨシ公元気だったかい〜、半年になるわぁ〜、あ
れからの話を〜、してあげらぁ〜……とかなんとか」
「……ずいぶん変わってやがるなぁ」
もう少しで、そりゃまるで千里姫様の短歌みてぇだ…と言いそうになって、冨
家の英吉は言葉を飲み込みました。

「へい、島流しになって、ご赦免になった、ヨシ公の歌ですかねぃ?」
「…い、いやなことを言いやがる」
「こう、身体ん前(めえ)で、きれいな顔しながら、こうやってかいぐりかい
ぐりするんでさぁ。首もかわいらしげに、振ってなさりやした」
「…その女、ちょいとばかりキ印かい?」
「それが親方、あっしはずっと見とれちまって…。胸先三尺あたりの最前列で、
ジーーッと見とれてたらぁ、遊んでくれたんですぅ」
「その、最前列ってなぁ、なんでぃ?」
「…い、いえ、とにかく遊んでくれたんですぅ」
「…そりゃよかったな。どこの人だか尋ねたかい?」
「なんでも、駿河台下に、お家があるとか…」
「へーー、三川藩様のお近くかい?」
「へいっ、そいでね親方、ジャンケンポンのあっち向いてホイってぇやつで、
遊んでくれたんでさぁ。ありゃ、とっても面白れぇ!」
「ジャ、ジャンケンの話なんぞ、するんじゃねぇや!!」
英吉はそう言い残すと、さっさと店の奥へ入って行ってしまいました。
「な、なにか親方の気ぃ触るようなこと、言ったかなぁ??」
丁稚の大坊は、剃刀を研ぎながら首をかしげます。

(25)へつづく