ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(18)


(17)からつづく



「親分、こりゃだめだ。見込みちげぇですぜ」
「おれのカンは、けっこう当たりやがるんだがなぁ…」
「どうしやす?」
「仕方がねぇ。面(つら)ぁだけでも確かめとくか…」
靖吉親分は用水桶から離れると、ゆっくりと鋳掛け屋の方へ歩いて行きました。

…と、そのときです。
「やあ、町方のっ! ナントカ親分。どうだ、なにか掴めたのか?」
小林弘之進が、靖吉親分の背後から突然、大きな声で呼びかけました。
振り返って小林先生の笑顔を見るや、サッと鋳掛け屋の方へ視線を戻します。
靖吉親分と鋳掛け屋の目と目が、瞬間ピタリと合いました。鋳掛け屋の顔色が、
スーッと変わります。
「ま、待ちやがれぃっ! 御用だぁ!」
鋳掛け屋は、道具箱をいっさい放り出すと、一目散に逃げ出しました。田代の
靖吉親分は十手を引き抜くと、大声で叫びながらあとを追います。
「御用だ、御用だぁ!!」
下っ引の正も、慌ててあとを追いました。
「ちくしょうめぃ! やっぱりヤツぁ本星だぁ!!」
「図星ですねぇ、さぁすが親分! …御用だ、御用だぁ!」

しかし、近ごろ明治屋で評判の菓子類を食べ過ぎて、少々太めになっている靖
吉親分は、鋳掛け屋からみるみる離されていきます。
「ち、ちっきしょ〜っ! …こ、これでも食らえ!!」
靖吉親分は、懐の巾着の中から銭を出すと、逃げる鋳掛け屋へ向けて投げまし
た。その銭は、見事、鋳掛け屋の後頭部に命中しました。
「親分、お見事! 神田明神下の親分よりもすげぇや!」
…が、しかし、髷で覆われたうしろ頭では、あまり効果がありません。
「し、しまったぁーーっ!!」
「親分、どうかしたんですかぃ!?」
「いい、一分銀を、投げちめぇやがった!!」
「親分、見栄ぇ張っちゃいけゃせんや! 一朱銀でゃんしょう!?」
「い、一分銀だぁ!!」
「ああっ! やつ、鋳掛け屋が、親分の銭を拾ってますぜ!」
「ま、待てぇ! 泥棒!! おれの一分銀を返(けえ)しやがれぇ!!」
「盗っ人に追い銭たぁ、昔の人は…うめぇことをいいやがったなぁ!」
「うるうるうる、うるせぇ!! 待ちやがれぇ!!」
結局2人は、鋳掛け屋にまんまとまかれて、逃げられてしまいました。

この捕物騒ぎの中、鋳掛け屋を追う、もう一組の男たちがいました。町人の格
好はしていますが、身のこなしはどう見ても侍のもの。しかし、うまく人込み
に身を隠しているので、鋳掛け屋にも、また靖吉親分たちにも気づかれません
でした。
巧みな身のこなしの男たちは、鋳掛け屋を追って、町中へと消えていきました。



「やはり、上屋敷を見張っておったか…」
小林弘之進は、戻ってきた2人に言いました。
「小林の旦那のせいですぜぃ! もし、あのままやつを尾けてたら、今ごろぁ
鬼面党のやつらの隠家(やさ)ぁ突き止めて、千里姫様をとっくに助け出せて
たかもしれねぇ!」
「いや、すまん、すまん。講義が早めに終わったものでな、本屋でも覗いてみ
ようかと、神田神保町をブラブラしていたのだ。すると、おまえたちを見かけ
てな、つい声を…」
「今ごろぁ、一味を一網打尽、お縄にできてたかもしれねぇのによぅ!」
靖吉親分は、さっきから盛んに文句を連発します。
いえ、鋳掛け屋を取り逃がしたのが悔しい…というよりもむしろ、まんまと虎
の子の一分銀を持っていかれたのが、なによりも惜しいのです。

「ちっきしょう、知らねぇ面(つら)だったがよう、面ぁ見知ったからにゃ、
なにがなんでも探し出して、お縄にしてやるぜぃ!」
近くの火の見の柱を、靖吉親分は口惜しそうに蹴りつづけます。
「一分銀も、ちゃっかり持ってきやがってぃ! とんでもねぇ、ふてぇ野郎だ
! なぁ、正!?」
「へ、へいっ! しかし親分、ありゃ一朱銀じゃあ…」
「うるせぃ!」
「しかし、これで相手方に、町方が動いているのを、知られてしまったな…」
「…そ、そうですねぃ。どど、どうしたら、いいんでゃんしょう?」
「なぁに、取り逃がしたのは、千里姫様の身の安全を考えると、かえってよか
ったかもしれん。ヘタに捕縛でもすれば、かえって姫君の身の上が危険だ」
「そ、そうでゃんしょうか??」
「こうなっては、あの忍者と一緒の、もうひとりの千里姫様に、いや、千里ち
ゃんに、期待するしかなかろう。しかし、そちたちは、今後とも三川藩邸の張
り込みをつづけてくれ」
「へ、へいっ、わかりやした」
「ところで、千里ちゃんは、今夜はどこを宿にするのであろうのう?」
「…そ、そりゃ、あっしん家(ち)でさぁ」
「なんで、おまえの家に泊まるのだ?」
「い、いえ、別に下心があるってわけじゃねぇんで…」
「顔じゅう、下心だらけの様子をしているではないか!」
「ちげぇねぇ」
「だ、黙れ、正! だ、旦那こそ、顔じゅう危なっかしさが漂ってますぜ!」
2人は、お互い顔を見合わせると、目を伏せてしばらく黙ってしまいました。
「今宵は本郷の拙宅で、ゆるりと千里姫様と蘭学のことなど語り明かすのだ」
「なんの蘭学か、知れたもんじゃねぇ。小林の旦那のは、ラン学はラン学でも
みだれ乱学でぃ」
「ぶ、無礼な!」

そこへ、往来の反対側から声がかかりました。
「小林殿!」
「おお、鈴木殿! そなたも、本を…?」
見ると、小林弘之進と同年輩の男が、こちらへ近づいて来ます。
「左様でござる。あのマイコという機械(からくり)が、とても気になってな。
ここへ、昔の文献を漁りにきたのだ」
「いや、それがしもでござるよ。はっはっは」
「…この者たちは?」
「…ああ、薬研堀のナントカ親分。町方だ」
「ナントカ親分は、ねぇでゃんしょう? 田代の靖吉と申しやす」
「あ、そうそう、靖吉親分…とかなんとか」
「ああ、今朝がた話しておった、町方の者か」
「こちらは、…どなた様でぃ?」
「鈴木淳乃介殿。…それがしの同僚だ。湯島のご聖堂の天文方で、蘭学を教え
ておる」
「そうそう、あのマイコだがのう、小林殿」
「なにか、わかりましたか?」
「うむ、それがしの記憶では、享保年間に手塚聡三郎という学者がいてな。そ
の手塚先生が、初めて作った拡声器に似ておるのだ。源内先生が活躍される、
少し前のことだが…」
「手塚聡三郎??」
「知らぬか?」
「…どこかで聞いた名でござる。……手塚、…手塚は、…確か洒落本か、御伽
草子の中に出てきた名ではないかな? そうそう、『男の夢』と『帰郷』とい
う、黄表紙でござった!」
「おぬしは、ロクな勉強をしておらんなぁ。違うちがう、ぜんぜん違う!」
「それがしの、勘違いでござろうか…」
「その手塚先生によれば、楕円の屏風状にこしらえた、ピンッと張った上質の
一枚和紙の真ん中に、極上の絹糸を通して裏側で留め、その絹糸の端に集声器
をつけたのだが、その集声器の形が、マイコによく似ておるのだ」
「…集声器?」
「うむ。手塚先生は、完成した拡声器を吉原へ持ち込んで、よく遊女と端唄を
唄ったり、芸者と三味(しゃみ)を弾いたりしたそうだ。その集声器で集めた
音を、拡声器から流していたらしいが、手塚先生の遊ぶ様子は大門を越えて、
お歯黒ドブまで響いたそうだ」
「…学者先生たちゃ、どいつもこいつもみんな助平でぃ」
そうつぶやく靖吉親分の顔を、暮れかかった蜜色の夕陽が照らしています。

(19)へつづく