ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(17)


(16)からつづく

●八の章


岡本淳蔵は、さっそく三川藩上屋敷を出ると、神田神保町にある浮世絵の版元
へとやってきました。
「主(あるじ)はいるか?」
「これはこれは、岡本様。…ささ、どうぞ」
浮世絵の出版元である戸澤屋克次郎が、座布団を持って出迎えました。

「新作でございますか?」
「いや、新作ではないが、早急に刷ってほしい絵柄がある」
「…いつもの、あっちのほうのでございますか?」
克次郎が声を低めて尋ねました。“あっちのほう”とは、戸澤屋にとって実入
りのよいエーベックスな春画のことです。
「そ、そうではない!!」
「ど、どうされました? …怖い顔をなされて?」
「…実は、わけありなのだ」
「どのようなものでございましょう?」
岡本淳蔵は、ていねいに大判半紙にくるまれて丸められた千里姫の似顔絵を、
大事そうに取り出しました。
「こ、これはまた、なんと…!?」
戸澤屋克次郎が驚いたのも、無理はありません。今までの浮世絵の構図とはま
ったく異なる、斬新な肖像画が出てきたからです。しかも、いつもの渋い色遣
いではなく、あくまでも派手ばでしい色合いに、鋭く描写された人顔の線がく
っきりと、見たこともないような大胆な勢いで描かれていました。

「こ、これは、素晴らしい出来でございますなぁ!」
「そうであろう」
「この、…なんと申しますか、この娘の今にも動き出しそうな表情…、勢いと
いうのか、はたまた写実主義と申しますか…、今にも“あ、そうだ、今度あた
しどこぞへ連れてってくださりませぇ〜”とでも言いたげな、愛らしい刹那の
お顔の蔭りと申しますか…」
「も、もうよい…」
「あ、はい。…つい、気が昂ぶってしまいました」
「して、大急ぎで下版したとして、明日の昼にはできるかのぅ?」
「な、なんと申されました? 明日の昼??」
「そうじゃ」
「そ、そんなご無体な…」
「いや、どうしても明日の昼ぐらいまでには、刷り上げてもらわぬといかん」
「こ、これですから、わがまま放題のお客に、印刷業はたいへんなので…」
「…おい、刷るのか、刷らんのか?」
「い、いったい、どのようなわけで?」
「それは言えん」
「しかし、いつも通りとしますと、初版三千枚…。三千枚も、明日の昼までに
は、とてもとても出来かねます」
「いや、十枚でよいのだ」
「…な、なにを申されます??」
「十枚だ」
「こ、これだけの出来のものを、たった十枚!?」
「そうだ」
「そ、それは、勿体のうございます! これなら、二万枚、いや五万枚の上は
出るかもしれません!」
「いや、十枚だ。それに、その十枚は、それがしが全部買い取る。他に、余分
に刷ってはならぬぞ」
「………はぁ、しかし…」
「版木も、十枚刷り終えたら、すぐに割ってしまうのだ。よいな?」
「………はぁ、でも…」
「では、頼んだぞ」
「ちょ、ちょっと待っておくんなさい、岡本様。…この絵の題目は?」
「…題目は、………ない」
「でも、この娘さんのお名前とか、おありでございましょうが…?」
「………千里」
「ちさと…でございますね?」
「…そうだ。ただし、絵の中に題目はいらぬぞ」
「…はい、なんとかやってみやしょう」
戸澤屋克次郎は、それでも岡本淳蔵の無理な頼みを、引き受けてくれました。
岡本は戸澤屋を出ると、上屋敷のほうへと引き返します。そのうしろから、鋳
掛け屋の身なりをした男が、そっと尾行しています。その男は、言わずと知れ
た鬼面党の一味、名前を朝倉の武蔵丸といいました。

版元の戸澤屋克次郎は、しげしげと娘絵に見入っています。そしてため息をつ
くと、彫り職人たちを集めました。
「急ぎの仕事だ。明日の昼までに、刷らなきゃならない」
「何枚ぐらいで?」
「………そうさな、……五千枚だ」
「そりゃまた、てぇへんな急ぎでやすねぃ」
「徹夜は覚悟だよ。紙の手配をしといておくれ」
「へいっ」
「…頼むよ。あたしはこれから、刷り職人たちを三十人ばかり、余計に集めて
くる。…頼んだよ、みんな」
「へいっ!」



三川藩上屋敷の外で張り込んでいた、田代の靖吉親分と正は、屋敷を出入りす
る人物や、門前を通行する人々に目を光らせていました。
大地震以来、あまり見られなくなった海鼠(なまこ)塀の武家屋敷に沿って、
神田駿河台下は武家や町衆が、けっこう賑やかに往来しています。

「親分、ほら。…門の中に入(へえ)って行きやすぜ」
下っ引の正が、靖吉の注意をうながします。
「いやに、慌てふためぇてるぜ。きっと、千里姫様が屋敷から消えたのに気づ
いたんでぃ。これからぁ、てぇへんな騒ぎになるぜ」
2人の侍が、三川藩上屋敷のくぐり戸を、あたふたと通りました。そのうちの
ひとりは、長い釣竿を門横の格子にひっかけてしまい、なかなか取れずに、そ
のまま屋敷へ入って行ってしまいました。
「釣竿がぶら下がった大名屋敷というのも、珍しかねえかぃ?」
靖吉親分が苦笑しています。
「よっぽど、急いでたんでゃんしょう」
正は、笑いながら、坂下のほうを見やりました。
「おやぁ…? 親分、あれ…」
正が指さす方角を見ると、先ほどなにやら大事そうに品物を抱えて出ていった
侍が、再び屋敷へと戻ってくるところでした。
「さっきの包みは、どうしたんでゃんしょうねぃ?」
「どこかへの、届け物だろう…」
「親分、このお屋敷の中に、鬼面党の手引きをしたやつがいるってぇことは、
ねぇでしょうね?」
「さぁ、そりゃどうかなぁ?」
「あっしはなんだか、そんな気が…」
「おめえの推理は、当たったためしがねぇ」
「…ち、ちげぇねえや」
「第一(でぇいち)、手引きをした者(もん)がいたんなら、わざわざ姫様を
かどわかすってぇのは解(げ)せねぇぜ」
「どうしてでやす?」
「だっておめえ…。だったら最初っから手引きしてもらって、三千両を直接い
ただいたほうが話が早ぇし、危なっかしくねぇじゃねえか」
「あ、そりゃそうでやすねぇ」

靖吉親分は、突然、ハタッと正の肩口を掴みました。
「…おい、正。あの鋳掛け屋を、見ろぃ」
「……あーっ、あいつさっきも門前を通りやしたぜ!」
「しかも、今の侍のあとをつけてきやがったみてぇだ。門の中を、なんとはな
しにうかがってる様子だぜ」
2人の町方が見張っているとも知らず、朝倉の武蔵丸の鋳掛け屋は、上屋敷の
門前で歩をゆるめてウロウロしています。
「ああ、あのやろうは、きっと鬼面党の一味でぃ!」
「待て! はやるな、正! …泳がせるんでぃ」
「…で、でも、親分。捕まえて吐かせちまったほうが…」
「いいか、千里姫様の、お命がかかってるんだぜぃ」
「だけどよう、鬼面党は人を傷つけたり、殺したりぁしませんぜぃ」
「いや、せっぱ詰まったら、やつらだって盗っ人だ。なにするか知れやしねぇ」
鋳掛け屋は、上屋敷の門前に腰を落ち着けようとするそぶりを見せましたが、
それも束の間、なにやら慌ただしく商売箱をかつぐと、道を横切って坂下方面
へ歩き出しました。
「それっ、正。行くぜぃ!」
「へい、がってんだ!」

鋳掛け屋は、駿河台下をすぎ、神保町から小川町へと歩いて行きました。その
あとを、つかず離れず、2人の岡っ引たちが尾行していきます。
神田錦町をすぎたあたりで、髪結い床の丁稚に呼び止められ、鋳掛け屋は鍋を
修繕し始めました。
「お、親分、ありゃ本物の鋳掛け屋だぁ…」
「いや、わからねぇぞ。あんな格好をして町中を歩くんでぃ。呼び止められて
商売になるってぇことぐれぇ、鼻から承知してらぁね」
髪結い床の次は、足袋屋の丁稚が釜を持ってやってきました。つづけて、反物
屋の丁稚…。2人は、しばらく用水桶の陰にかくれて様子を見ます。

    

(18)へつづく