ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(14)


(13)からつづく

「いや、ご聖堂をクビになるぐらいだったらまだよい。野にある蘭学者の中に
は、あからさまな弾圧を受けた者もいる」
声を低めて、小林弘之進が囁きます。
「こりゃー、ここだけの話ですがねぇ、ここいら両国界隈も、松平様がご老中
になられてからぁ、火が消えたようでぃ。前(めえ)ぁ、掛け小屋や芝居小屋
や見世物で、広小路はごったがえして賑わってたもんでさぁね。あらかた猿若
町や、日本橋の外れに追いやられちめえやがった」
靖吉親分は、窓側の障子をスーッと閉めながら言います。
「そいが、なしてこげんこつんなっとっと?」
「シーーーッ。千里ちゃんは知らねーかもしれねぇが、こちとら、やりたくね
ぇ役目で、それらの小屋を家捜しして、豪華なきんきらの着物や道具を、いや
いや没収したってわけでさぁ」
「きんきらの着物ば、ステキじゃなかねぇ〜」
「いえ、あっしだってそう思いやすが、御上には逆らえねぇ」
「みんなで、逆らえばよかね」
「そそ、そんな大それたこたぁ、できやせんぜ。こちとらの、首が危ねえ。そ
れに、どこに定町見廻りのほかに、臨時見廻りや隠密見廻り同心の目が光って
るか、知れやせんから…」

「加役の弾圧も、残虐で目にあまるという話だな」
小林弘之進が箸を置き、懐手(ふところで)をしようとしたのですが、忍者の
服装だったのに気がつき、両手を所在なげに膝へ乗せました。
「へえ、聞いた話ですと、今年に入(へえ)ってから、加役のお取り調べで死
んだ町人は、十人や二十人じゃありやせんぜ」
「カヤクって、いったいなんな?」
「千里姫…いや千里ちゃんは、知らなくてまことに幸せでござる。……して、
これは関東の、一粒残しでござるかな?」
小林先生が、また箸を取り上げると、馬刺しの最後の一切れを食べました。さ
っきから、その最後の一切れをねらっていた木曽忍者が、またまた殺気立って、
刀の鍔をチンッと鳴らしました。
「加役たぁ千里ちゃん、ご老中お支配の火付盗賊改でさぁ」

江戸時代の市中は、人口の増大とともに、町奉行支配の御家人から募集した与
力・同心だけでは手不足となり、それを補佐するために、老中配下である若年
寄支配の御先手組(おさきてぐみ)の弓頭(ゆみがしら)と鉄砲頭の中から、
加役として任じられるのが、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)でした。

武家や寺社、町人のほとんど区別なく、どこでも自在に探索できる、いわば米
国のFBIのような存在です。ただし、その残虐非道ぶりと、江戸市民に対す
る横暴・暴虐ぶりは目にあまり、次第にあらゆる階層から反感をかい、憎まれ
ていきます。

この寛政年間に、火付盗賊改を支配していたのは、特にその残酷さ、冷酷さで
知られた長谷川平蔵、町人から忌み嫌われ“鬼平”と呼ばれたサディストでし
た。“鬼平”に捕まり、拷問死した町人は、数知れませんでした。

「上等よ! そげなひどか鬼んような奴らは、やっちまいな!」
「おや、千里ちゃん! 江戸の町言葉ぁ、しゃべれるじゃねぇですかい?」
「……こいだけたい」
小林弘之進が、刀を脇に差して立ち上がりました。
「それがしは、そろそろ参る。連絡をとるのは、薬研堀の大番屋でよいな?」
「へぇ、ようしゅうごぜえます」
「じゃあ、千里ちゃん。拙宅へ参ろうか…」
小林先生が、千里姫の手をむんずと取りました。
そのとき、木曽忍者が、目にも止まらぬ早さで刀を抜くと、再びチ〜ンと収め
ます。誰もが一瞬、なにが起こったのかわかりませんでした。すると…、次の
瞬間、小林弘之進の帯がパッと割れ、大小二本がドサッと、畳の上へと転がり
ました。
「…お、おぬし、腕は立つようだのう。姫の護衛は、そちに任せることにしよ
うか。…では、千里姫、また近々…」
小林弘之進はそれだけ言うと、切れた帯を急いで結び直し、大小を抱えると獣
肉(ももんじ)屋の2階から、そそくさと往来へ下りていきました。

「……木曽忍者さん、す、すごかねぇ〜! うち、見直したと!」
「…あ、あっしも、驚きやした」
靖吉親分の言う傍で、正がぶるぶる震えながらへたり込んでいます。
「これぐらいは、朝飯前でござります。姫君様」
「朝飯のあとねぇ〜。……そいより、指から血が出とっと」
木曽忍者は、千里姫の声にギョッとして手元を見ました。
「…じ、自分で、ゆ、指を切ってしまいましてございますぅ!」
それだけ言うと、フラフラッと千里姫のほうにもたれかかってきます。
「ど、どげんしたとね? ほんのかすり傷たい」
「そ、それがしは、自分の血に弱いのでござる…!」
「…やっぱ頼りなかぁ。…ほんなこつ、たいっぎゃにしよらんね」

貧血を起こしてもたれかかってきた木曽忍者を、千里姫は冷たい表情でよける
と、立ち上がりざま大川端に接した障子を、左右にガラッと開け放ちました。
両堤に延々とつづく満開の桜並木の中、春の薫風が、川面を気持ちよく渡って
いきます。


    

(15)へつづく