ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(13)


(12)からつづく



「江戸の馬刺しも、美味しかぁ〜!」
「ここぁ、馬でもカシワでも魚でも、刺し身の本場ってぇもんですぜぃ。たん
と食いなせぇ。…って言ってもよう、勘定ぁみんな木曽忍者さんだけどよ」
「………」
木曽忍者は憮然とした顔で、さっきから狸汁をすすっています。
「拙者も、これほど旨いももんじは、長崎以来でござる!」
「な、なんで、おぬしまで一緒に、ここで馬刺しを食っているのだ!?」
木曽忍者が、小林弘之進を睨みつけます。
「まあよかねぇ〜。木曽忍者さんは、なんとなく幹事に向いとる。うちも、頼
りにしとるけん、そぎゃん怒らんと笑ってほしかぁ〜」
千里姫が、木曽忍者の手を握りました。
「…はっはっはっはっ…は〜〜〜〜っ、…シクシクシク」
効果はてきめん…とまではいかなかったようです。今月のお給料が、千里姫の
せいでみるみる減っていきました。
「そいより、みんなに相談があっとねぇ〜」
「なんでござろう?」
「なんでゃんしょう?」

千里姫は、これまでのいきさつをかいつまんで話して聞かせました。最初は半
信半疑だった靖吉親分や正も、だんだん話に引き込まれていきました。小林弘
之進はといえば、先にマイクという機械(からくり)を見ていますから、あま
り抵抗感なく千里姫の言うことを信じることができました。

「するってぇとなにかい、千里ちゃん。あっしらに、そのかどわかされた千里
姫様の行方を、探して欲しいってわけかい?」
「そうたい」
「こらっ! 千里ちゃんとは、無礼であろう!」
木曽忍者が、すかさず聞きとがめます。
「だってこのお人は、ほんとは姫様じゃなくて、本物の千里姫様がほかにいる
ってんだから、こちらは千里ちゃんで、よかぁないかい?」
「こちらも、千里姫様だ! そう呼ばんと、拙者が成敗してくれるわ!」
「わけのわからねぇ忍者さんだなぁ。だからー、こっちの千里ちゃんはぁ〜…
ええとぉ、何年でしたっけ?」
「1991年たい」
「そそ、千九百九十一年とかの中野天ぷらコンコンサッタから来なさった…」
「中野サンプラの、古今東西コンサートね」
「そうそう、そっから来なさったんだから…」
「それでも、このお方は、千里姫様だ! 本物より良いのだ!」
「もう、わけのわからねぇ忍者さんだ…」
「して、手がかりはあるのかな?」
小林先生が尋ねます。
「そいが、ぜーんぜんなかねぇ。赤坂の豊川稲荷ぐらいたい」
「豊川稲荷ねぇ。キツネかムジナにたぶらかされそうなところだ。…しかし、
この大江戸八百八町、姫君を探すのは、ちと骨だのう…」

小林弘之進が、“大江戸八百八町”と何気なく表現しましたけれど、この千里
姫が迷い込んだ寛政年間は、実際には大江戸千七百町もありました。
つまり「江戸」という町の名称は、808町を超えた段階で「大江戸」と呼ば
れるようになり、1700年初頭には1300町、1800年前後には170
0町、そして幕末には2000町近くもあったのです。

「しかし、鬼面党もふてえやろうだぜ。おれの縄張りで、お大名屋敷の姫様を
かどわかすなんざぁ、やってくれるじゃねえけぇ。貧乏人の味方の義賊だって
んでぇ、いままで大目に見てきたとこもあったがよう、今度ぁ〜容赦しねえ。
…なぁ、正?」
「へいっ!」
「だがなぁ、町方のぅ、これは目付や若年寄加役の管轄だぞ。豊川稲荷なら、
寺社奉行だ。うかつに動くと、おまえたちのクビが飛ぶことになる…」
小林先生が、手の甲を首に当ててたたきました。
「なぁ〜に、ほかならねぇ千里ちゃんの頼みでぃ。こちとら、頼まれたらイヤ
たぁ言えねえ、根っからの町育ちよう。この話、乗りやすぜ!」
「靖吉親分は、姫様に逢ったときから、もう乗りっぱなしでさぁ」
「ちげぇねえ。わかるか、正? あっはっはっはっ」
「さしより、小林先生、どぎゃんすればよかとねぇ〜?」
「そうだなぁ…」
小林弘之進は、天井を向いて考えています。みんなは、そんな先生の様子を、
ジッと見ていました。

「そうだなぁ…、とりあえずぅ…、千里姫の探索は町方にまかせて、千里ちゃ
んと拙者で、…とりあえずぅ、待合いへ行くのはどうだ?」
木曽忍者に殺気が走り、刀の鍔をチンッと鳴らしました。
「この無礼者め、もう一度言ってみろ…。その首、即刻飛ばしてやる!」
「そうでぃ! そんなことしたら、あっしだって旦那をただじゃおきませんぜ
ぃ! ひっくくって、小伝馬町へ放り込んで、八丈島のそのまた向こうっかわ
の無人島(ぶにんじま=小笠原諸島)まで送ってやらぁ!」
「ま、まあ待て。冗談だよ、冗談! 勘違いするな、拙者は洋介丸ではない、
落ち着け! …しかし、千里姫は、すっごい人気だなぁ、はっはっは」
「冗談言っとらんと、知恵ば貸してくれんね!」
「済まんすまん。…そうだな、とりあえず町方には、三川藩上屋敷に張り込ん
でもらうことだ。必ず、鬼面党の一味が見張りに来るはず…、いや、もう来て
るかもしれん。そこを尾行して、一味のねぐらを突き止めるのだな」
「な〜るほど、その役目は、あっしたちに任しておくんなせぇ」
「それから、千里姫には…いや、紛らわしいな。千里ちゃんでよいであろう?」
小林弘之進は、チラッと木曽忍者を見やりました。
「千里ちゃんは、できるだけ賑やかな目抜き通りを歩いてもらう…というのは
どうかな?」
「なぜだ?」
木曽忍者が、いかがわしそうに小林先生をうかがいます。
「いや、それほど千里ちゃんと姫がそっくりなのであれば、もし市中を歩く千
里ちゃんを鬼面党の一味が見たら、きゃつらは、きっとなにか手を打ってくる
かもしれん」
「なーーる…、囮ってぇわけですねぃ?」
正が、横から口をはさみます。

「そのような危険なことを、姫君様にさせるわけにはゆかん!」
「だ、だからーっ、いま危険な目にあってるのは、千里ちゃんじゃなくて、ホ
ンモノの千里姫のほうであろうが?」
「そいがよかぁ〜。うち、江戸の町中を、いろいろと歩いてみたいけ〜ん」
「じゃあ、決まりだな」
「姫君様、いけませぬ! そのような危険なお役目、それがしには、絶対に承
服できかねまする」
「それをお守りするのが、忍者さん、あんたの仕事じゃねぇーか」
田代の靖吉親分が、煮え切らない木曽忍者に文句を言います。
「聞いた風なことをぬかすな! …それはそうと、おぬしはなにをするのだ?」
木曽忍者が、小林弘之進に噛みつきました。
「拙者は、マイコを持ち帰って研究してみるのだ。それに、講義も待っておる
しな。もし、なにか変わったことでもあれば、湯島ご聖堂の蕃書方(ばんしょ
かた)か、それがしの本郷の屋敷まで知らせてくれい」
「エラソーに指図して、結局おぬしは、なにもせんではないかぁ!」
「そいも、そうたいねぇ。話ば聞いたとだけん、あたもなんかせんといかんよ」
「いや、それが最近、それがしの蕃書方蘭学の講義が、廃止されそうなのだ。
だから、講義を休むわけにはいかぬ。なにか弱みや口実を握られたら、それが
しは、即刻クビになるであろう」
「どぎゃんしたとね、小林しぇんしぇ?」
「…うむ、ご老中首座は、朱子学をことのほか推奨されておる。それには、拙
者のような蘭学者が、湯島のご聖堂蕃書方におるのが、気に入られんのだ。辞
めさせたくて、いつもそれがしのアラを探しておるのだ。もうひとり天文方の
蘭学者、鈴木淳乃介殿も、まったく同様の立場に置かれている」
「そりゃまた、陰険なことぁしやがるぜぃ」
靖吉親分が、吐き棄てるように言いました。

松平定信による、学問の大弾圧政策は、“寛政異学の禁”と呼ばれます。それ
は、蘭学などをはじめとする洋学はもちろん、儒学でも朱子学以外のもの、陽
明学・古学・折衷学などがことごとく弾圧されました。

これら「異学」を教えていた教師たちは、むりやり塾を閉鎖させられたり、禁
を破って教えつづけた者は、容赦なく入獄・遠島に処せられました。小林弘之
進の言う蕃書方とは、西洋の(主にオランダの)書物を購読する講義を行って
いたと思われます。


(14)へつづく