ちかこ@目白・作

■『千里姫の冒険』(11)


(10)からつづく

●六の章


千里姫と木曽忍者の駒は、神田界隈から日本橋をへて、両国広小路を突っ走る
と、薬研堀にある大番屋の前で止まりました。

「ねえねえ、うちん下駄ば出しよらんねぇ」
千里姫は、木曽忍者の懐から下駄を取り出すと下へ投げ、ヒョイっと馬から下
りました。つづいて木曽忍者が、馬からドサッと地面に落ちました。
「大丈夫ねぇ?」
「は、はぁっ。…姫様の下駄を懐で温められるとは、恐悦至極に…、オエッ〜」
「たいっぎゃ酔っとっと? そげんお酒飲んだら、いかんよぉ。体に悪かぁ〜」
「さ、さ、酒ではござりませぬ!! ウェッ…」
「あた、うちんボディガードなんだからぁ、しっかりせんとぉ〜…」
「…どど、どこまでも、付いてまいりますぅ〜」
「そいで、よかぁ」

外の会話を聞きつけて、下っ引の正(まさ)が顔を出しました。
「おはよう、正しゃん」
千里姫を見たとたん、下っ引の正は、腰を抜かしてしまいました。
「はは、ははぁーーーっ!」
「そぎゃん恐縮せんでよかぁ。そいより、靖吉親分はおっとね?」
「ははぁっ!」
「おらんとね?」
「ははぁっ!」
「どっちねぇ!?」
「す、すぐに呼んできやすでございやす!」
「そいから、水道はどこにあっとねぇ? 忍者さんとお馬しゃんに、お水ば上
げんといかん」
「す、水道は、この家並み筋の外れにありますでございやす!」
浮き足立った正は、そう言い残すと、「てて、てーへんだぁてーへんだぁ!」
と叫びながら、どこかへ走っていってしまいました。

ちなみに解説しておきますと、当時の江戸の町中の上水は、ほとんど100%
近くが水道(すいど)の水でした。「江戸っ子は水道(すいど)の水で産湯つ
かい」と川柳にあるほど、江戸っ子は飲み水のきれいさを誇りにしていました。
江戸を舞台にした時代劇で、長屋の人たちが井戸から水をくんで、生活水に使
うシーンが見られますが、あれはまったくのデタラメの大嘘。
武家屋敷の並ぶ山の手の奥ならともかく、江戸城の南側=町人の住む下町界隈
は、海を埋め立てて造成された土地がほとんどですので、井戸水はしょっぱく
て飲めませんでした。

そこで、幕府は落差約92メートルの小石川上水と神田上水、遅れて玉川上水
から水道管で清水を引き、お城や下町へ網の目のように飲み水を供給していた
のです。
水道橋(すいどばし)の下の神田見附、牛込見附、市ヶ谷見附、四谷見附、赤
坂見附、浅草見附などは、お城へ上水を引き込む取水口のことであり、また町
中へ上水道を供給する分岐点でもありました。
当時、上水道が完備されていた都市は、世界中でこの大江戸とロンドンの2都
しかありません。だから、井戸水中心のヨーロッパ諸国などで頻繁に起こった、
街人口の50〜70%が死亡してしまうといった、伝染病や疫病禍のようなカ
タストロフから、大江戸の町は無縁でいられたのです。

期せずして、千里姫が「水道はどこにあっとねぇ?」という質問が、下っ引の
正にそのまま通じたのには、実はこのような背景がありました。この江戸の上
水道網は、東京府となった明治維新以降も使われつづけ、金属の水道管にとっ
てかわられて姿を消すのは、明治の末になってからのことでした。

「こ、こりぁたまげたぁ! 千里姫様!」
田代の靖吉親分が、起き抜けの顔をしながら、正と一緒に駈けつけてきました。
「おはよう、親分! さっそく、遊びに来よったとねぇ〜」
「ほんとに来なさるたぁ、思ってもみませんでしたぜぃ!」
「なんか親分、今日は、たいっぎゃ派手な着物ば着とっとねぇ」
「おっ、さっすがお姫様、お目が高(たけ)え。これですかい? これぁ、い
ま流行りの、三代目・尾上菊五郎の、菊五郎縞でさぁ。伊達でゃんしょう」
「ぜーんぜん、似合(にお)うとらん」
「は、はっきし言いますねぃ、姫様は…。かなわねぇや、へっへっへ」
「ま〜だ、正しゃんのギンガムチェック……じゃなかぁ、弁慶縞のがシャレと
っとねぇ。たいっぎゃ粋たい」
「へ、へいっ、ありがとうごぜぇやす!」
ようやく千里姫に馴れてきた正が、満面の笑みを浮かべました。
「うち、朝ご飯まだだけん、どっかで食べよ〜」
「こ、こんなとこへお越しになって、お屋敷のほうは大丈夫(でいじょーぶ)
なんですかい?」
靖吉親分が、心配します。
「大丈夫ねぇ。そいに、親分を男と見込んでの、相談もありよるし〜」
「う〜、嬉しいこと言ってくれるねぃ。こちとら、姫様のご用なら、ていげぇ
聞いちまうよ。なにしろよぉ、足ぃ洗った仲だもんねぇ〜」

「ひ、姫様、足を洗うとは、市中でなにごとか…オエ〜ッ」
水道で顔を洗った木曽忍者が、まだ青白い顔をして聞き耳を立てました。
「うちん汚れた足を、親分が洗ってくれよったとね。上のほうまで洗いすぎて、
ちょっと、たいっぎゃエーベックスだったけんねぇ〜」
「へへへっ、面目(めんぼく)ねぇ」
「こ、この、無礼者めが!! ウェッ…。ふ、不とどき千万、そこへ直れ! 
オエ〜ッ …拙者が、手打ちにしてくれるわ!」
木曽忍者が、背中の刀の柄(つか)に手をかけました。
「な〜に、ひとりで時代劇やっとっとぉ?」
「姫様、この忍者さんは、いってぇどなたですかい?」
「な、なぜ、拙者を忍者だと見破ったのだ!? 怪しいやつ!!」
「だからぁ〜…。そん衣装ば、早う着替えんといかんねぇ。親分、なんか着替
えばあっと?」
「どなたでごぜぇます?」
「うちん護衛ねぇ。ばってん、ちょっと頼りなかけん…」
「…昨夜、泥酔して虎箱に入(へえ)ってる、ご浪人がひとりおりやすんで、
その方の衣装を、とりあえずお借りんなったら…」
「ちょうどよかぁ〜。どこにおっとねぇ?」
靖吉親分は、番屋の仮牢に、千里姫と木曽忍者を案内しました。

「これ、町人! 拙者を誰だと思っておるのだ。ここから早く出せ! わしは、
天下の湯島ご聖堂の蘭学講師、小林弘之進なるぞ」
「へいへい、ご浪人様。その前に、ちょいとお召し物を貸しておくんなさい」
「無礼者、拙者は浪人などではない!! これでも、ご公儀の学府で講師を勤
める、れっきとした直参だ!」
「へいへい。しかし旦那ぁ、いくら直参の先生でも、天下の往来でクダぁ巻く
ってぇのは、迷惑でござんしょう?」
「…そ、それは謝る。蘭学の実験が、うまくいかなかったので、ついヤケを起
こしてしまったのだ。…早く、ここから出せ!」
「へいへい、すぐにお出ししやすが、そのかわり一時(いっとき)お召し物を
こちらの忍者さんへ、貸して上げちゃぁくれませんかい?」
「…わ、わかった。そのかわり、すぐに出せ!」
「へい、がってん承知。…おい、正、お出ししねぃ」

小林弘之進は、仮牢のくぐり戸を出ると、初めて千里姫に気がつきました。
「そ、そちは、どこの娘だ? これから、それがしと茶店でも行かぬか?」
「先生、出た早々、軟派はねぇやね。こちらぁ、今ぁこんななりをされてる
が、れっきとした、大大名のお姫様ですぜぃ」
靖吉親分が、小林先生に二本差しを返しながら言いました。
「茶店がだめなら、不忍池(しのばずのいけ)の散歩でもよい」
そのとき、千里姫と小林先生の間に、木曽忍者がズズズイッと立ちはだかり
ました。
「姫様に言い寄る輩(やから)は、拙者が成敗してくれるわ」
「…姫様は、いくつになられる?」
「たとえ、直参旗本とて、容赦はせぬぞ!」
「…どこに、住んでおられるのだ?」
「ひ、人の話を聞けぃ!!」
そのとき、千里姫が木曽忍者を押しのけました。
「先生(しぇんしぇい)は、なんの実験ばしよっとねぇ?」
「おお! なんという、うい声であろう……」
「蘭学って、オランダの勉強のことねぇ?」
「…お、阿蘭蛇をご存知だとは!! 知性と教養も、兼ね備えておられる!」
「ついでに、オランダの県庁所在地…じゃなかぁ、首都はアムステルダムたい。
ばってん、うちはイギリスのロンドンか、モンゴルのが好きねぇ」
「おおおっ!! 英吉利(えげれす)をご存知とは…!」
「先生は、オランダのお医者ね?」
「…いや、拙者は、今は亡き源内先生の弟子で、科学を専攻しております」
「へぇ〜、エレキテルの平賀源内ねぇ! 歴史ん教科書で読んで知っとっと」
「おおおおおっ!! 才色兼備とはこのこと! 拙者は、その自動エレキテル
生成装置を研究しておりまする」
「じゃあ、エレキギターを作れっとねぇー!?」
「…エ、エレキ下駄とは、なんでござるか?」
「うちん好きな楽器ねぇ」
「さ、さあ…?」
「じゃ、じぁ〜、こいを研究して、音が出るようにできっとねぇ?」
千里姫は、懐からステージマイクを取り出して、小林先生に渡しました。
「こ、これはっ!?」
小林弘之進は、ためすがめつマイクを眺めていましたが、なにやら感動したよ
うにため息をつくと、千里姫に言いました。
「これは、見事な細工。このマイコも、エレキ仕掛けで動くのでござるか?」
「そうたい。こいに話しかけると、大きな声になってスピーカーから出よる」
「なるほど、拡声器とでも申すものでござるな…」
「あ、さっすが、飲み込みが早かねぇ!」
「少しばかり、これをそれがしに預からせてはくれぬか?」
「よかぁ。そんかわり、研究ができたら教えてほしかねぇ〜」
「わかり申した。ところで、朝餉はお済みか? 拙者と一緒に…」

…ということで、千里姫と靖吉親分に下っ引の正、それに武家のいでたちにな
った木曽忍者と、忍者の格好になってしまった小林弘之進は、連れ立って薬研
堀不動の前を歩いていきました。

(12)へつづく