ちかこ@目白・作

●一の章


1991年3月3日午後6時56分、中野サンプラザの舞台裏では、いま人気急上昇中の森高千里が、<古今東西〜鬼が出るか蛇が出るかツアー〜>の27 回目のコンサート開演に向けて、最後の準備を終えていました。明日が、28回目のコンサートで楽日という森高は、少し声枯れを起こしてはいたものの体調も良く、一気にクライマックスへと突入していく気迫も十分でした。

普段の彼女のステージ衣装とは異なり、水髪をやや桃割り風に結い上げて結び、 得意のギンギラミニスカート姿でもボディコンでもなく、いかにも江戸下町の 町娘らしく縦横縞の黄絣を、ちょっと怒り肩にもかかわらずスリムに着こなしています。(いえ、怒り肩なのは、下にギンギラのコスチュームを着ているせいなのですけれど) 帯は、紅染めに大きな青蝶をあしらった鯨帯を、カッシと昆布巻き締め。足元は、いつものハイヒールにかえて、爪布つきの黄鼻緒が映える、とても粋な羽根虫(江戸駒下駄)。

「こん絣、暑かぁ〜! 舞台でこげな着物ば着よるんは、こんツアーが最初で 最後だけんねぇ〜」
当時、まだ『酔わせてよ今夜だけ』を作っていない森高は、スタイリストに向けて盛んにグチりながら、マネージャの方をいたずらっぽく振り返りました。 「お客の入りは、どげんなっとっとでっしょ?」 「超満員だよ、千里ちゃん」
それを聞くと安心したように、マイクを持つ手の指をポキポキッと鳴らしました。森高は、マイクを帯の間にはさむと、縁起かつぎの子ブタ手鏡を見ながら、 ヘア&メイクやスタイリストと最後のスタンバイに入ります。 そのとき、急に客席から大きな拍手や歓声が聞こえてきました。 「あーーれぇーーぃ、いわしこ〜い」
幕が開いたのです。もうすでに、全国を廻って馴れてることとはいえ、胃のあたりがキリキリと差し込むのはいつものこと。脚本では、このあと岡っ引と同 心が登場して、ハリボテの大きな赤鬼に追いかけられることになっています。

舞台の上では、いつものように、順調に芝居が進んでいきました。 「オレの屁を〜かいでみろ〜〜!!」
もうすぐ、最初のセリフが回ってきます。森高は、マイクのスイッチを慎重に ONにすると、そのタイミングを見計らっていました。 「…もう一発、いくぞ〜〜!!」
「(…3・2・1、今だ!)待って!」
ウォ〜〜ッという、あたかも台風の日に、高層ビルの最上階にいるような感じのどよめきが聞こえ、“千里登場”のイントロが始まりました。森高は、舞台 最上段に通じる裏階段をゆっくり登ると、大きく深呼吸をひとつしました。 森高に手渡す信玄袋を手に、着替え用のコスチュームを順繰りに用意しながら、 スタイリストが左手に控えています。森高は彼女に目配せをすると、口を一度 ギュッと強く結んだあと、舌で唇をスッと濡らしました。

…と、そのとき突然、頭がクラクラっとしたのです。森高は一瞬、なにが起こったのかわかりませんでしたが、足元から急に力が抜けていくのを感じました。 (こ、こんめまいは、近くに、ちかこがおっとねぇ〜?) そんなはずは、ありません。森高とちかこ@目白が知り合うのは、まだ3年も先のことです。このときは、まだ“昔は良かった”タイプの森高のはずでした。 (こ、こいは貧血ねぇ〜。まだ、胃から出血しよっと? ま〜た、入院ね?? …こ、困ったとね! う、うち、もうすぐ倒れそうたい…) 強烈な柑橘系の香りが、森高の周囲を包んだように思われました。その匂いをかぐと同時に、彼女はどんどん気が遠くなっていきます。 (…もうダメね。…倒れる! だ、誰か…) バタンと倒れた拍子に、頭を打ったように思うのですが、よくわかりません。 「たいへん! 誰か来て〜!!」というスタイリストの声と、ドカドカと駆け寄ってくるマネージャやスタッフたちの足音が、かすかに森高の脳裏に響いたあと、意識が急速に薄れていきました。最後の記憶は、「誰か、早く水持ってこい!」と叫ぶスタッフの声でした。…しかし、これがこの物語の、すべての #プロローグだったのです。



「おーーえーーぃ、わ〜しこ〜い。おーーえーーぃ、わ〜しこ〜い」 「かーーーーつぉーーーぃ、かーっつぉ。…はっつもーーん」 「かぶらなーーめせ、だいこんはーーいかに、はすもそーろーー、いもやーー いもやーー」
どこかで、まだ舞台の物売りの声がつづいています。 (早う目ば醒まして、ステージに出んと…。穴空けるわけにはいかんよ) 森高は、まだクラクラする頭を一度振ると、ゆっくりと目を開きました。強烈 なライトが目に飛び込んでくると同時に、十手を持った岡っ引が、森高の顔を覗き込んでいます。
(う、うちは、ステージで倒れたとね! …早く起きなきゃ!) 「おめえさん、行き倒れかい? 見たとこ、そんな風にゃ見えねえけどよう」 (…?? そぎゃんセリフ、あっただろか??) だんだん意識がハッキリしてきた森高は、ゆっくりと身を起こしてみました。

「う、うちは鬼たいじの…、歌を唄わんといかんよ…」 先ほど、強烈なライトだと思ったのは、実は気持ちよく晴れた真昼時の太陽でした。すぐそばには、3月(新暦4月)の大川端(隅田川岸)の柳が青々とした芽を吹いており、彼女はその根元に倒れていたのです。 「鬼たいじたぁ、恐れ入谷の鬼子母神。おめえさん、桃太郎にでもなったつもりけぇ? ええ?」
岡っ引がゲラゲラ笑い出しました。
「…こ、ここは、どこね? …す、ステージは? …な、中野サンプラザは、 どこね!?」
「ナカノ天ぷら…なんだってぃ? おめえさん、神隠しにでもあったんじゃね ーか? なんだかよう、そんな顔をしてるじゃねーか」
「…ここは、どこですかぁ??」
「おう、ここは大江戸のまんまん中、両国橋んたもとの広小路西詰め、薬研堀 (やげんぼり)でい。おめえ、どっから来たんだよう?」 「…と、東京からね」
「トーキョウって何でい? ああ、先ごろ御上(おかみ)から手鎖五十日のお仕置きをされたぁ、山東京伝の知りえーかい?」
「…な、中野は、どっちにありよっと?」
「ナカノってなぁ、いってぇなんでぃ?」
「新宿の先の、中野のことねぇ」
「シンジュク? ……ああ、そりゃお鷹場に近けぇ渋谷村ってぇ田舎の、そのまた上にありやがる甲州街道の内藤新宿(ないとうしんしゅく)ってぇケチなとこかい? おれぁ一度も行ったことねえがよう。ええと…、だから、あっち の方角さね。お城の向こうっかわでぃ。…おめえ、そこの出身なのかい?」
「…う、うちは、中野サンプラで古今東西のコンサートやっとったと!!」
「天ぷらだのコンコンだの、わけのわからねーこと言ってんじゃねーよ。おめえ、家出娘じゃねーだろーなぁ。…出身は?」
「…く、熊本でっす」
「へっ? どこだってぃ??」
「……♪肥後どこさ熊本さ〜の、熊本でっす」
「…九州の肥後けぇ、そらまた遠くから来たもんだ。名めえは?」
「森高千里です」
「…お、お、おめえ、町人の分際で、名字があるわけねーじゃねーか! 嘘つ くと、ためんならねーぞ!」
「うちん名前は、森高千里でっす! 嘘じゃなかね」
「やい! 天下の両国広小路のおてんとうさんの真下で、大嘘つくたぁいい度胸だ。ヘタな芝居をしてやがると、大番屋へしょっぴくぞ!」
「嘘じゃなかぁ!」
「ふてえ娘だ、立て! どーせ、家出娘ってとこだぜ」

森高は、ゆっくりと立ち上がりました。もう、めまいはしません。むしろ、とても気持ちがよく、隅田川の水面にキラキラする光を見ながら深呼吸をしました。自分がどうなってしまったのか、まったくわかりませんでしたが、どうや ら妙な空間に入り込んでしまったのだけは、薄々気づき始めました。いえ、それともこれは、気を失っている間の夢なのでしょうか…。

ふと見ると、森高と岡っ引の周囲には、うじゃうじゃと人だかりがしていまし た。みんな、時代劇のように髷を結っています。その向こうに広がる、桜のほころびかかったボゥッとする、見事な白壁つづきの町並みを見て、彼女は改め て驚愕してしまいました。まるで、時代劇のセットのような家並みが、見渡す限り地平線までつづいています。

(2)へつづく